「果てしなく青い、この空の下で……」

 最近ではいささか古臭い言葉になってしまったようであるが、少し前に、「癒し系」という言葉が大流行したことがあった。すなわち、時間に追われる現代人の生活の中で、乾いてしまった精神状態を癒してくれる「もの」の総体をさして用いられた言葉である。それはとりわけ都市部における生活そのものと相反する光景を用いて作り出される「もの」により為されるわけで、こういった時代背景を背にすると、ものすごく平たい単純な言葉で言えば「田舎」を舞台にしたものは、無意識のうちに「癒し系」というジャンルに系列化されることになる。
 そこでこの作品、「果てしなく青い、この空の下で……」である。

 このいささか深遠な、不思議なイメージの漂うタイトルの作品の舞台は小さな田舎町。それも、今までのゲームが舞台にしてきたような、駅前だけは栄えているというような中途半端な田舎町(などというような言葉があるのかどうかは知らないが)ではなく、過疎が進行してしまっている本当の田舎町である。
 物語は春から始まる。過疎が進んだことで生徒が少なくなった、主人公の通う学校が廃校されることになってしまった。それを阻止しようとしながらも、運命に翻弄されるしかない主人公たちの一年間を描くというのが、この作品の主だった柱になる。
 そしてこの中で、音楽や背景、雰囲気がすべてあいまって作り出す雰囲気は、まさに「癒し系」のそれだ。キャラクタたちの豊富な表情も、コンクリートの見えない自然豊かな背景も、総じてそういった雰囲気を作り出している。しかし、そこにわずかに存在する、各キャラクタや舞台背景の持つ謎めいたいくらかの疑問が、プレイヤー――つまりここではわたし自身のことであるが――がこの作品を進めていこうというひとつのきっかけになっている。

 だがしかし、この作品が凄いのは、ここでは終わらないところだ。実際にプレイしてみれば容易にわかることであるが、ただ単にそういう「田舎めいた雰囲気」を楽しむためだけに存在する作品……すなわち「癒し系」にとどまらない、深遠な物語を持っているのである。
 最初に存在していた微かな「謎」は、やがて作品そのものの鍵へと次第に変化してくる。最初はまったくわからなかった単語の意味がそれぞれに意味をなし、ひとつの作品として纏め上げられてくるのを、感覚としてはっきりと感じることができるのだ。この作品に出てくる、いわゆるエンディングを持つ女性キャラクタは5人いるのだが、その5人がそれぞれしっかりとした意味を持ってそこにいて、そのエンディングの一つ一つが、バッドエンドも含めてしっかりとした物語の土台を作り上げているのである。つまり、それぞれエンディングがあるものの、そこから物語がバラけることがないのだ。マルチエンディングと呼ばれるゲームシステムにおいては、それぞれのエンディングがそれぞれで閉じてしまっているのが普通であり、それがすなわち「各キャラクタのエンディング=各キャラクタの世界」で完結してしまう。もちろんそれは悪いことではない。しかし、そこをすべて開いて究極的なところではひとつにつなげてしまっているということが、この作品の持つ大きな特徴になっているのではないかとわたしは思う。

 そしてもうひとつ、わたしがこの作品に没頭することになった原因のひとつは、この作品の持つ雰囲気作りの巧みさにあると言っていい。
 かねてから、ゲームにおいてプレイヤーをいかにその世界に引き込めるかを決定するのは、いわゆる「萌えキャラ」の存在でもなければ綺麗な絵でもない、そこに作り上げられた雰囲気がいかに巧みであるかということは幾度となく繰り返してきた。そこに描き出されるひとつの文章、一枚の絵、一曲の音楽、すべてを合わせたところで出来上がるものが、プレイヤーの記憶にある擬似的な背景をいかに引き出すことができるかなのだ。その状態で目を閉じたとき、まぶたの裏にそこに描き出されていた光景が見えてくるか、ということである。
 もちろん実際に描写が細かければよいというものではない。人間の記憶は、もののかたちを正確に記憶することはないからだ。否、上にも触れたように、こと物語において引き出される記憶というのは、あくまでも「擬似的な背景」である。つまり実際には見たことのない、イメージとして持っている景色だ。そこにおいて、人間の記憶は、見たことのない景色はもちろん、そこに存在する聞いたことのない音、感じたことのない風の感触まではっきりと「思い出す」ことができる。できるからこそ、それをうまく引き出すことができるかどうかが、物語を作る上でひとつの課題になることは言うまでもないだろう。
 この作品においてもそれは例外ではない。現実に、あの作品をプレイした人の中で、ああいう過疎の村を実際の記憶として持っている人というのはそんなに多くはないだろう。しかしあの作品をプレイしていると、それでも小さな田舎の村の感触、雲雀の声、風の匂いを感じることができるのだ。サンプリングされたSEや描き出された背景とはまた別に、脳の中には実際に入っているはずがない安曇村を、あたかも今そこにいるかのような目で見ることができるのである。それがこの作品に引き込まれていく理由になっているのだ。
 この作品の珍しいところは、風景に関する描写があまり多くないということである。春の暖かさを、夏の暑さを、秋の涼しさを、冬の寒さを、文章として掘り下げて書き込む描写というのが少ないのだ。しかし、それとは別に、もっと別枠の……主人公が感じている景色、見ている景色そのものを丁寧に、巧みな言い回しで書き込むことによって、それぞれの季節のそれぞれの風景を、文章で説明する以上の実際の「感覚」として感じさせる仕組みができあがっているのである。
 それだからこそ、恐怖を感じさせるシーンは本当に怖い。詳しいことに触れると物語のネタバレになってしまうのであまり細かくは掘り下げないが、廃屋の土壁のシーンや、古井戸に覗く顔のシーンの恐怖感というのはまさに恐怖そのものだ。物語をひとつの擬似的な世界体験だとするのならば、ここに感じる恐怖というのはまさに驚愕すべきものである。これには文章の巧さというのがもちろんあって、そこに見事にマッチした音楽と、見事にマッチした背景と、見事にマッチしたキャラクタのすべてがあるからこそなのだと思う。だとすれば、ここのある物語の奥深さは本当に計り知れない。

 ゲーム的なアプローチから見ても、その物語へ没頭させるのを手助けするシステムに溢れていて、これも含めて見事な演出になっている。まだ記号等の処理に関してやや未完成ながら、「縦書き」をシステムに導入したというのはその最たるものだろう。別に横書きでも縦書きでも変わらないといってしまえばそうなのだが、縦書きでこの物語を読んでいると、またそこにある世界が別の見え方になってくる。ゲームとして見た場合でも、そんなに煩雑なフラグがあるわけでもないが、少なくともセーブポイントはたくさんあるので特に困ることもないだろう。音楽も、最近の軽いノリのポップな曲調よりも、どちらかといえば地味な感じの曲調を多用することで、その雰囲気を見事に作り出すことに成功している。もし勿体無い点があるとすれば、キャラクタによってはやや唐突にエッチシーンが入ってきてなんだか無理やりっぽさを感じたり、誤字がちょっと多いかなあ、という点だろうか。

 もし、物語を楽しみたくて、まだこの作品が未体験だと言う方がいらっしゃったら、この作品はちょっと触れて見ていただきたいと思う。物語を物語として楽しむことの楽しさに少なくともわたしは感動したし、そういった感覚を持ちうるだけの魅力を、確かにこの作品は持っているからだ。そういう意味ではこの作品、一般的な言葉の意味との違いこそあれ、確かに「癒し系」であることは間違いないのかもしれない。

 最後に、この作品の中でわたしが一番好きな一文を。本当に何気ない絵ではあるが、たったこれだけで、のどかな昼間の田舎の駅の光景が浮かんでくる名シーンだと思う。

「ホームに上った俺たちは、駅員さんが笑いながら早く乗るように合図しているのを見て、慌てて客車に飛び込む。」


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