04/07 「地震論」

 というわけで、まあそのなんだ、生きております。
 当日はビルの8階で仕事をしていて、棚からあらゆる荷物が落っこちてきてえらい怖い思いをしましたし、帰るにも電車がなくて新宿から江戸川区まで4時間徒歩で帰るという体験をしてしまい、しかも立て続けに起こる余震に気が気でない生活を送っていたらもうなんだか精神的に不安定きわまりないような状況になってなんだかいろいろなことに対するやる気みたいなものがものすごく減退してしまったりはしました。だからこそここまで更新しないままほったらかしたわけなんですけども。
 まあそのなんだ、もう、時事ネタみたいなのはいいです。たぶんあたしなんかよりみなさんのほうが詳しいでしょうし。とりあえず、これを見ている人の中であの被災地の中の方というのがどれくらいいるのかはわかりませんが、もしいらっしゃったとしたら、心よりお見舞い申し上げます。
 もうなんかね、書きたいことはたくさんあった気がするんですけど、その間にいろいろあったことであらかた吹っ飛んでしまったんで、もうなんかわりといいかなって感じになってきてしまいました。
 なんかアレなんですよ、この間、原発の問題だとかいろいろ派生してくる問題も含めて、いろいろ考えさせられることが多くて、まとめてから書こうかなあとも思ったんですけど、もうね、なんてか、どう足掻いても楽しい話題にはならないわけですよ。
 まあ、そんなんなるわけないんですけど、だったらそういうようなことをここに書いてもいいものかどうかというような迷いはないわけではなかったんですけどもね、どっちにしたってここ以外に書くとこないんだから。まあ愚痴ですよね愚痴。
 いやね、これはここの更新が滞った理由でもあるんですけども、なんかね、今回の震災と、そのあとのいろいろな問題とかを見てて、ネットというものに失望してしまったというか、なんかそんなようなアレがあって、震災後しばらくどうしても必要なもの以外に関してはネットを見てなかったんですね。
 コレが、今まで会社から家に帰れば即パソコンの電源を入れるくらいネット依存症といってもいいくらいのアレでしたし、そんなん耐えられないのとちがうかなあみたいなところもあったんですけど、見なきゃ見ないで意外となんとかなるもんだったりもするわけです。
 なんかもう、今回の件って、ネットのいい点もいっぱい判明したのと同時に、悪い面も一気に露呈した感じだったわけです。なんか以前にも書いたんですけど、非常に情報が早く広まるというメリットの半面、いい加減な情報やデマを平気でまき散らしたり、露骨な悪意を「釣り」とか云ってまき散らしたり、なんかもうそういうのに耐えられなくなったんですね。
 まず前者は主にツイッタなんですけども、もうね、当日からいい加減な情報がコレでもかってくらい散らばって、デマを最初に撒いた人が糾弾されてたりしたワケですが、あたしゃ同じくらい撒き散らかした人も猛省すべきだと思うんですよ。コレ前にも書いたんですが、なんでもかんでもリツイートするということの危険性とか、責任感とか、そういうものがすっかり忘れられている気がする。
 なんかね、この「リツイート」というのをどうしても好きになれない理由を色々考えてたんですけども、結局ね、あたしはどうも「自分の責任や努力を棚上げにして物事を行う」ということが大嫌いなんだという結論に達しました。
 匿名掲示板で自分の責任を放棄して人を糾弾して、いざ責任を追求されれば「便所の落書きだから」とか云ってみたり、他人が考えた企画にただ乗りして商売したりするのも似たようなものですけども、この「リツイート」ってのは要するに、「自分の意見を、人に責任を押し付けたまま発信する」手段なワケです。
 たとえば、今回の震災で云えば、どこそれ地区で物資が足りないから今すぐ持って行ってくれ、というのを見て、それを「リツイートする」というのは、その元となる情報の真贋に対する責任を発信元に押し付けたまま自分の意見として発表しているワケですよ。
 これを「発信するかどうかを選択して利用する」のがメディアリテラシなわけですけど、特に「マスゴミは」なんて云って既存メディアを非難する人ほどこういうリテラシに疎く、「日本のメディアはウソツキと隠蔽ばかり。信じられるのは海外メディアとネットだけ」みたいなわけのわからん信条に取り憑かれていたりするもので、ネットで云われている負の情報(今回の件で云えば、既に放射線が大量に漏れてるとか)だけは無条件に信じていたりしてワケがわからんなあ、というようなことになってくるわけです。
 誤った情報や、意図的に流されたデマに釣られてそれを流してしまった人の中で、それがデマだとか謝った情報だとか云うことがわかったあとに謝罪するという人がどれだけいるのかというのを考えれば、そういう「謝った情報を流したことに対する責任」みたいなものが自分にはないと考えている人がどれだけ多いかということが想像できます。
 チェーンメールなんかだと、割と「さらに広めるやつも悪い」みたいな考え方も少しづつできてきていて、広めた人もそれなりに責任を感じたりとか、そもそもチェーンメールを広めるという行為自体が割とナンセンスな扱いになってきているのですが、まだ新しく、なおかつメールに比べて発信が手軽なメディアであるツイッタではそういう考えはまだほとんどありません。
 なんかね、それがものすごく嫌なんですよ。
 誤った情報を撒き散らかした責任も、モノを云うことに対しての責任も一切合財放棄してモノを云えるなんて、こんな気楽なことありません。友達同士だけの会話だって、発言には責任があって、無責任なことを云えばその友達から糾弾されるんですから、不特定多数の人間が見ることができるネット上において、それはときとして致命的な欠点になりえます。
 その重大さと、その気楽さがあまりにアンバランスで、前々からそれってどうなのと思っていたものが、今回の大きな災害で露呈したなあ、という印象だったのですね。
 東京電力とか政府とか、そういうところを非難するならしたらいいのです。どんな意見でもそれを持つのもそれを発表するのも自由です。たとえあの地震はアメリカ政府が仕組んだ新兵器、みたいなバカな陰謀論だって、そう思おうが発表しようがその人の勝手です。思想・良心の自由は憲法でも保障されているワケですからね。
 だけども、人の尻馬に乗ってなにかを責めるのはやっぱり違うんじゃないの、と思うんですよ。
 たとえば、誰かが「総理大臣が動くのが遅い」とツイートして、それと同じ意見を持っている人がそれをリツイートしたと。
 別にツイッタ上では普通に行われているごくごくあたりまえの行為ですけども、それがあたしにはものすごい違和感があるんです。総理大臣が動くのが遅いと思ったなら、人の意見を単に引っ張ってくるんじゃなくて、自分の言葉でそう云ったらいいだけの話で、なんかコレが人に責任をおっかぶせて、安全地帯から自分の云いたいことを云い散らかしているような、そんな印象を受けてしまうのです。
 ただし、ただしですよ。
 ツイッタはこういう使い方を想定してこの機能を搭載したワケですし、そういう使い方がツイッタのルール上間違っているワケではないと思うので、単にあたしが気にしすぎなだけなのかもしれません。だからあたしがツイッタ上でコレをいちいち責める行為はしないですし、注意してまわることもしません。当たり前です。ローカルルールに反していないのだから、責められる謂れなんてありません。
 だから、これを読んでいる人で、リツイートを普段から普通に使っている人がいたとしたら、いやいやなに云ってんのと思ってくれてかまいません。この場合、ルール上間違っているというか、あたしが勝手なルールを付け加えて勝手に不快になってるだけですから。
 そうなればもう、あたしがしばらく気が晴れるまでツイッタを離れるしかないワケで、まずそれがあってツイッタを見るのをやめました。
 で、そのあと、ネットを中心にいろいろ見て回っていると、なにを考えてか知りませんが、露骨に悪意をむき出しにしている個人のブログだとかそんなのを見る機会が増えてしまい(別に意図的にそういうのを検索しているわけではなく、リンクをたどっていくとそういうところに行きついてしまうのです)、なんかものすごく嫌な気持ちになるわけですよ。
 東電の社員が原発の問題解決のために一所懸命になっているという報道があれば、お前らの責任なんだからそこで働いて死んで責任とれとか、東電の社員の子どもをいじめることで東電に抗議をしようとか。もっと大局的なところで云えば、なんでもかんでも「政府は事実を隠蔽している」と集団ヒステリみたいに云ってみたりとか。
 被災地の人はもちろん、被災地で働く多くの人々も、政府も、マスメディアの人も、自衛隊の人も、東電の人も、今現在がんばってない人なんてほとんどいないと思うんですよ。やっぱりいろんな形で心を痛めていて、自分でできることを精一杯やろうとしていると思うんです。
 それは、あたしや他の人々が思っているのとおそらく同じだと思うんですね。もちろんそうでない人もいるでしょうけど、やっぱり多くの人は、「今できること」を一所懸命にやってると思います。
 それを悪意で埋め尽くすことに、どれだけの意味があるんだろう?と思ってしまうのですよ。
 ただし、悪意むき出しの意見だろうがなんだろうが、上にも書いたとおり思うのも発表するのも自由です。だからそれをやめろと云う権利はありません。
 さらに、こういう緊急事態で、多くの人々がなにかできることはないかと自分の無力さを呪いながらも自分にできる範囲でやれることを見つけようと焦り、被災地の荒涼とした街を見てなんとも云えない感情に押しつぶされ、とかく平常心でいるのが難しいときに、いわゆる「炎上」を意図的に引き起こしたいといういやらしい考え方はすっともぐりこみます。
 こういう人の善意に乗っかった悪意で遊ぶという行為が、もうあたしにはものすごく嫌なんですよ。純然たる悪意よりも嫌。なんか見てて悲しくなってくる。募金詐欺とか、被災地での火事場泥棒とか、ただ法律的に犯罪に問われるか問われないかの違いだけで、やってることの思想は同じじゃないかと思ってしまいます。
 んで、ネットを見るのもやめました。いやもちろん完全に「ネット絶ち」したわけではなく、気晴らしとか業務上必要だったりするときには使いますが、リアルタイムの情報収集の手段として使うことはほぼなくなりました。情報収集をしようとすると、それ以上に、そういう「あたしの中で許容できないもの」にぶつかる可能性が高くなってきたからです。
 結局、情報収集手段はなにかと云えば、これはもう専らテレビと新聞です。
 もうね、マスコミ大嫌いな人々からすれば信じられないってなもんでしょうけど、震災以降、これ以上ないんじゃないかってくらいテレビを見ています。こんなにテレビ見るのは中学生のとき以来なんじゃないかってくらい。
 んで、結論としては、それで十分です。もちろん、既存メディアの中に問題がないとは云いませんし、直すべきところが多々あるというのは云うまでもないことです。中にはやっぱりそれは行き過ぎだろうという報道もありました。それに腹を立てるのは仕方がないのですが、じゃあそれだからと云って、メディア全部がダメという考え方になるのは、ものすごく危険だと思います。
 で、云うまでもないことですが、ネットの情報がすべて事実ではないと云っているわけではありません。実際問題として、メディアが報じてなくてネットだけが伝える真実も数多くあるでしょう。でもそれは「ネット」と云う大きな切り口ではなく、「どこそれのサイトが伝えていることは真実」とかそういうことになると思います。
 でもそれって既存メディアでも同じなんですよね。「どこそれのテレビ局は(あるいは番組は、とか、新聞は、とか)真実を伝えている」という切り口にならなきゃいけないはずなのに、「既存メディア」はなぜか総称として否定されがちです。
 こういうメディア嫌いな人々の、「被災地での報道は救助活動の邪魔になる」と云いながら、「東北ばかり報道していわき市などを報道していない、もっと報道すべき」みたいなことを云ったりする、メディア叩ければなんでもよし的なダブルスタンダードとか、とかくメディアは嘘ばかりついてて事実を隠蔽していて云々なんて云いながら、その局で放映されているバラエティ番組とかアニメなんかは普通に見ていたりするボイコットもできない中途半端さみたいなものがどうにも理解できません。また、テレビ局が報道することで家族が出会えたりしたという報道については、もうそんなことは存在すらしなかった、みたいな扱いです。
 で、まあ、ずっとテレビを見ていると、やっぱり「その取材姿勢はどうなんだ」というのもあったりしますし、その報道によって東京電力や政府なんかの対応にいら立つことも多々あります。そのへんはネットのほうに重きを置いている人々と変わりません。
 あたしがネットを見なくなったのは、別にネット上に転がっている情報が間違っているからとかそういうことではなく、上にも書いたとおり、「個人的に許せない行為がまかり通っているから」にほかなりません。テレビにも嘘と真実はあって、ネットにも嘘と真実はあるはずという、当たり前の話に帰結するのです。
 かえすがえすも、テレビや新聞はすべて正しい、ネットはすべて間違っていると云っているわけではないんです。テレビが嘘をつくなんてことは、テレビの取材を何度か受けた中で経験として知っていることです。
 既存メディアとネットを両方見て、正しい情報を選択していくというのが一番正しいリテラシのあり方なんでしょうけども、それがいかに難しいか、ということですね。今のあたしだって、ネットを結果としてリジェクトしていることで、ある程度「偏っている」状況にあると思います。ただ、テレビとネットを比べたとき、あたしにとってはテレビのほうがまだ腹が立つことが少ないからテレビに依存しているだけです。
 ただ、ずっとテレビを見ている中で、「感動」とかそういうのとも違うなにか得体のしれない感情に動かされることというのが多々ありました。
 ひとつは震災から一週間後くらいに、東北のいくつかの港や鉄道網、仙台空港などが物資の輸送に使えるようになった、という報道があったとき。
 なんというか、人間の力ってすげえというか、あの手のつけようがないくらいまでになってしまった港や空港を、たったの一週間やそこらで使えるようにしてしまうその力みたいなものが、もうただただすげえやと思いました。
 もうひとつは、家を流されてしまった男性を取材しているとき、津波で荒涼とした町と流されて跡形もなくなった家の跡地で、その男性が「津波が起きる前、家の軒下にチューリップの球根をたくさんぶらさげておいたんですよ。だから、この場所一面にチューリップが咲いたら綺麗だなと思って」って云ってたんですね。
 なんかもう、なんだろう。すげえやって思った。いろいろと「地震のあとのいい話」みたいなのは、テレビとかネットとかでも散々あってそういう話もいちいちすげえなあと思っていたけど、なんかそれ以上にこの一言が効いた。感動したとかそういうのともちょっと違うけど、ただただすげえなあって思ったんですよね。
 なんかね、どうしても後ろ向きになりがちで、いろいろ考えることも多くなるからどうしてもこんなんなっちゃうんですけども、次からは通常運営に戻れれば、と。ある意味愚痴垂れ流してるのも通常運営ではあるんだけどもな。
 去年、青森に行ったときに立ち寄って写真を撮ってきた、八戸港の見覚えのある景色が津波に呑まれていく景色は、ただもう呆然と見るしかありませんでした。
 もう一度青森とか遠野とか、大好きだった東北の町に普通に遊びに行けるよう、できることをしていければなあ、と思っております。

<近況報告>
  • 以前まで深夜12時まで営業していた駅前のスーパーが、節電で9時までの営業になってしまい、会社帰りに野菜とか買うことができなくなってしばらく食が貧しくなっておりましたが、ようやく12時まで営業してくれるようになって普通の食事に戻りました。
  • そんななか、気分転換も込めてパソコンを新しく組みました。久々だったんですごい緊張した。Core i7とか使って12万円くらいだったかな。Windows7が使いづらいぞ。
  • 最近のビデオカードは、電源ユニットから電源を直接ケーブルで供給してやる必要があることを知らず、丸一日「画面が映らないぞ」とか云って困ってました。いやはや。
  • > 『カジュアル殺意』は不可ですか?
     あんまりカジュアルに抱かれても困る感情ですけど、そういうのってときどきあるよねということに気づきました。
    > 失って傷付く位なら最初からいらない、そうは思いませんか?
     いやいや。それを手に入れようと努力することで人間は一回り大きくなるのですよ。
    > でもまあ、貯金できる環境って羨ましいですよ?
     生活すごい切り詰めてますけどね! 半額のイカの刺身(120円)がごちそうだぜ!
    > 「〜ですね?わかります(キリッ」とか何なんですかあれ。頭悪いの丸出しですよね。
     そんな云いまわしがあるのか……。なんだかよくわからん世界だなあ。
    > 次世代PSPってPS3並の性能だそうですね。これじゃ据え置き機の立場がないですな。
     でもあたしは画面が大きいほうが好きなので、やっぱり据え置き機が好きです。っていうか、PSPのサイズにPS3の性能を突っ込むことってできるのかなあ。
    > ゆいにゃんとはなしてみたいにゃん。SKYPEしたいにゃん
     あたしみたいな童貞30男と話したところでなんの身にもなりませんよ? あと、SKYPEっていうのがよく聞くのですがいまひとつどういうものなのかわかっていません。昔あったICQみたいなもんか。
    > 『小悪魔メイク』はあるのに何故大悪魔メイクや魔王メイクはないんでしょうね?
     それ以上に、小悪魔メイクのどこらへんが小悪魔なのかがあたしにはさっぱりわかりません。小悪魔ってほど可愛くも小憎らしくもないよね。
    > 女の子のパンツのクロッチってエロいですよね。元々はゴールドラッシュで働く漢達のボトムに付けられてたものなんですが…
     いきなり入ってくるフェチズムと豆知識の差に笑わざるを得ませんでした。敗北です。
    > 疲れているのか、ISDNをICBM、サムネイルをサムライと読んでしまいました。。。
     二点ほど突っ込みたいのですけども、今このご時世に「ISDN」という文字を目にする機会がそんなにあるのかという突っ込みがまず一点、サムネイルとサムライではもはや文字数からして違うじゃないかという突っ込みが一点。
    > ここに書いてもしょうがないけど被災した方の無事を祈らずにはいられない
     まったくですね。ほんとにそれ以外ありません。あとはこれからの復興のためにできることを、という感じです。
    > 高御さんご無事でしょうか?
    > さすがに心配なんですけど生きていますよね?ね?
     ちゅうわけで、気力は以上にないですが普通に生活しております。ご心配おかけしました。


  • 戻る