01/07「宗教論」

 というわけで、今年からちょっとスタイルを変えていきまして、なんてかこうネタネタしくなくても更新回数を増やしていく方向でいきたいと思っております。なんで、ときどきネタのひとつもないような文章が多々混ざる可能性がありますが、それはまあそれでいいじゃないか。よかないけどもな。まあ不評だったらやめたらいいさ。
 まあ、新年なんで、新年らしくちょっとアカデミックな話題からいこうかな。そんなこと云ってて毎回やれ14歳セミロングの巫女さんだとかおにいちゃんおにいちゃんとなついてくるツインテールの女の子だとかの話になってるから誰も信用しなくなるんだけどもな。
 正月のなにが辛いってテレビがつまらないことでして、なんか彼女とかいればいっしょに初詣のひとつも行くんでしょうけどそんなの夢のまた夢ですし、店も開いてないからやることはないような状態でテレビ見るしかやることがなくて、仕方なく見てると普段ならああつまらないなあと思ったらほかのチャンネルにまわせばまったく別の趣の番組があってどれかひとつくらいは楽しめるという構図があるにも関わらず、この正月3が日あたりはもうどこ回しても芸人がわけもわからずはしゃいでいるような番組ばかりでこれのどこが面白いのかわからないだけならともかく見ていて不快になるようなアレなわけです。
 ああ本筋からは外れるけどもさ、一番酷かったのは大晦日から元旦深夜にかけてやってたフジテレビの番組だね。これもうさ、なんてんですか、顔も見たことのねえような芸人がただはしゃいでるだけなのはまあほかの番組もいっしょだから別にいいんですけど、なんだろうな、内輪だけで「正月だからこんなことしちゃうよおもしろいでしょ?」というダダすべりの寒さと(それも明らかに台本があることが丸わかりの大根演技付き)、ほかの芸人が真面目にやっていることを馬鹿にして笑いをとるといういまさらな方法論と、さらには「オタクの聖地と生中継」とか云って平野綾さんを鷲宮神社へ連れて行ってそこに来ていたいわゆるオタクのひとをさらし者にして「気持ち悪い」とかって笑うという、いまどきこういうオタクバッシングをひさしぶりに見たなあというようなアレで、平野綾さんもほんとはこんな自らのファンを敵に回すような番組出たくねえんだろうなあと思いながらチャンネルを変えました。あんなひどいってか不快な番組ひさしぶりに見た。
 そんな中で『祝福のカンパネラ』あたりを全話一挙放送したりしている東京MXはもう一昔前のテレビ東京的ななにかだなと思いながら正月早々カンパネラってたりしたんですが、もうあれだね、安心して見られる正月番組は、『ゆく年くる年』と『年の初めはさだまさし』くらいのもんだね。
 前回も書いたけど、昔は『ゆく年くる年』がはじまると、NHK以外の民放もぜんぶ『ゆく年くる年』になって、どのチャンネルを回してもぜんぶおんなじ番組がやっているというのが正月以外に味わえない感覚だったのであちこち回して「ああ、おんなじだ」なんて思ったりしたもんですけど、いつのまにかあれもなくなってしまったのだなあ。あの「正月に向けて一体化してます」って感じが好きだったのになあ。
 いやまあそれはともかく。
 ほかにひとつ楽しみにしている正月番組というのがあって、それが『ビートたけしの教科書に載らない日本人の謎』というやつなんですけどもね、これがよくできてるんですよ。日本人の起源たる歴史や宗教に踏み込んでいくというバラエティ番組なんですが、バラエティの割にはよくできていて、それなりにわかりやすくそれなりに面白いのと、なにより毎回テーマが面白いので、年に一度の楽しみということでつい見てしまうわけです。
 第一回目が「伊勢」、二回目が「熊野」で今回は「高野山」というわけで、神道が2回続いて今回は仏教の特集だったわけなんですが、わたしは仏教に関しての知識というのはほとんどないに等しいので、へーそうなんだってのが結構あったりもしたわけです。
 その中で、学者の人が「仏教はあらゆるものが体系づけられており、それが体系のない神道と比べて大和朝廷が国家統治に使う上で都合がよかった」というようなことを云っていたわけですね。
 おお、なるほど!と思ったんですよ。
 いや、この「なるほど!」は、そういうわけで仏教が大和時代からノシてきたのか!ということに対する「なるほど」ではありません。もっと個人的な、「あたしはどうして神社や神話は好きなのに、仏教の寺院や仏像とかにほとんど興味がないのか」ということに対しての説明が、それでついてしまうような気がしたからです。
 つまるところ、ものすごく簡単に云ってしまえば「仏教は宗教で、神道は宗教のようなものである。で、あたしは宗教には興味がない」ということなんですね。
 ここを読んでいる多くの方はもうご存じのことと思いますが、あたしは神社へ行くのは大好きですし、神社へ行けば熱心に参拝しますし、お守りも買えばご朱印もいただきます。はっきり云って、普通の人より多く(頻度や場所数的にも)多く神社へ行っているのは間違いないと思います。
 それでも、じゃあ自分が敬虔な神道の信者か、と云われると、それは違うような気がしていたんですよね。
 もともと「神道の信者」という言葉に違和感を覚えていたということもあるのですが、仮にそういうものがあったとしても、あたしがそれにあてはまるかというと、なんかちょっと違う気がするわけです。
 だってまず、わたしは「神様」というものの存在を間接的にしか信じていません。間接的にという云い方が実にあいまいなのですが、まあつまりその、「神様という存在が実際に存在していてどうこう」という信じ方はしていないけれど、「神様という存在が目に見えないどこかにいて、記紀神話にあるみたいになんかみんなではしゃいでいたらいいなあ」という思いはあるわけですね。ここはちょっとなかなか伝わりづらいところではあるのですが。
 そもそも、あたし自身は根本的に「宗教」というものに格段の思い入れはありません。何か特定の宗教に入ったことはないし、入りたいと思ったこともないです。
 宗教というものはいわゆる「すがるもの」であるというか、悪い云い方をすれば、なにか自分にとって不都合なことがあったときに「その対象のせいにする」というか、そういう性質があると思うんですよね。
 たとえば「祈りが足りないから失敗したのだ」とか「信心が足りないから失敗したのだ」とか、はたまた「お布施が足りないから失敗したのだ」とかなんでもいいんですけど、とにかくそういう「宗教的な何かが足りなくて、それがゆえに自分に不幸なことが起こったのだ。だから、これからはより宗教的に熱心になろう」と思うわけです。
 自分の失敗によってなにか悪いことが起きたならまだともかく、本当に運の善し悪しだけでなにか悪いことがおこってしまったとか云う場合、まあその自分を含めたなにかのせいにすることもできずについ信心だとかそういうものに原因を求めたくなって、「信心が深くなればこの不幸も消え去るのだ」と思いたい気持ちというのはわからないではないのですが、やっぱりそれは別にそういったものに起因するわけではないわけで、これはもうどうにもならないわけです。
 まあ、そこまで直接的でないにしても、たとえば「バチがあたる」なんていうのはそういう発想の延長なわけでして、われわれは多かれ少なかれ生きていくうえでそういうことを意識してはいるわけですね。
 とはいえ、やっぱり宗教というものそのものには、まったく興味はないわけです。
 神様にすがれば救われるとか、祈れば救われるとか死んだあと極楽へ行けるとか、そんなこと云われてもなあ、というのが正直なところで、祈ったりするくらいでそんな前向きにいろんなことが解決するなら苦労しないよなあ、などと思ってしまったりするわけです。
 つまるところ、根本的に、宗教というものに対しての信頼がまるっきりないんですね、あたしには。
 とまあ、そういうことからすると、「高度に宗教的に体系化されたもの」である仏教に、あんまり魅力を感じることはないわけです。
 神道というのはいろいろな意味で実にいい加減で、教祖もいなければ、開祖もいませんし、経典もないし、絶対的な祈りの対象もいません。草木からトイレにまで神様がいるという「八百万の神様」という思想にあるように、神道における日本の神様というのは「なんとなくそこにあるもの」であり、仏教のように宗教として体系化されているわけではない……というか、宗教としての体をなしていないものだったりする、というのは有名な話でしょう。
 神道がもうちょっと宗教としてしっかりとしたものであれば、日本は他の多くの国がそうであるように、特定の宗教を支持する人によって構成される宗教国家になっていたのかもしれませんが、かつて国家宗教であった神道が良くも悪くもいい加減であったことが、大陸から渡ってきた仏教を当時の大和朝廷がすんなり受け入れてしまい、その結果として神社とお寺が隣り合って存在するという不思議な国家になった原因なのでしょう。
 だから、仏教(だけでなく、キリスト教もイスラム教もそうでしょうが)に出てくる崇拝の対象となる開祖や仏様や神様というのは、そろいもそろってみんな偉いわけですし、まったくもって模範的なわけです。人を救ったり道を説いたり、「えらい人がいるからみんな尊敬しようぜ」ということなわけですね。
 ところが神道の神様はそうじゃありません。もちろんそういう神様もいますが、喧嘩もすれば浮気もするし、ほかの神様を殺したりも平気でします。なんてか、すごく人間的なのです。
 ありとあらゆるものに対して宿っているという神様を人格づけようとすれば、それはもうそうせざるをえないわけですけど、なんというか、そういうのんびりしたところが、実に宗教らしくないんですよ。絶対的な信仰の対象になりづらい、とでも云うのでしょうか。
 これがたとえば、宗教として天照大神を中心に体系づけられていたとしたら、絶対的に中心でなければならない天照大神の存在というのは神聖にして犯すべからずにならざるをえません。だって、そうでもしないと、そこから枝分かれして下につく他の神様の立場がなくなっちゃいますからね。
 もちろん、神道において天照大神というのは絶対的な存在ではあるのですが、じゃあこれが問答無用で唯一無二、なにひとつ欠点のない存在かというとそんなことはなく、天岩戸神話などでも伝えられるように、非常にわがままかつおちゃめだったりするわけです。
 仏教の究極の目的というのは、「悟りを開き、現世輪廻から解脱すること」だと思うのですが(このへん違ってたらすみません)、そういった体系も神道にはないわけですね。なにかをすれば高天原に行けるからそれを目指しましょうとかそういうのがないわけです。つまり、これといった目標もありません。「がんばれば天国へいける」「悪いことをすると地獄へ行く」という発想もなく、人間が住んでいる現世とカミサマの世界というのは完全に切り離されているわけです。
 こりゃ確かに大和朝廷が扱いづらいと思ったのも至極当然といえばそういう話で、国家を宗教的におさめようと思ったら、「なんだかよくわからないけどそこにある神道」では圧倒的に物足りないわけです。宗教的に完成されている仏教を政治の中に取り入れていこうというのは、国家としては当たり前の話になります。
 神様とかそういう目に見えないものに対して畏怖し、それを敬う気持ちを持つことを宗教だと云うのであれば神道も立派な宗教なのですが、ほかの宗教のように神様のポジションも目的もまったく体系化されておらず、ただただそこにあるだけ、という存在が、宗教というものを信用していないあたしのような人間には非常に大きな魅力にうつるわけです。
 ま、要するに、「**しないと地獄へ落ちる」とか、「**すれば天国へいける」みたいな発想が嫌なわけですよ。
 だって、自分が尊敬していたりとかそういうものへ近づきたいという気持ちはあるにせよ、自分がそれになれると思うのってすごく傲慢な考え方じゃないですか。死んだら死んだでなにもかもが消滅するけど、生きてる間はここではないどこかにいる神様たちがわいわい楽しんでいる様子を想像して、ときどきそこへお参りさせていただく、くらいのほうが圧倒的に楽しいわけですよ。
 だからと云って、別にほかの宗教を馬鹿にしているわけでは決してなくて、もちろんそれはそれであっていいしあるべきだと思うんですが、あたしの「そういうのを楽しむ」という考え方からすれば、堅苦しすぎてまったく合わないんですね。もっと気楽にったらアレですけど、なにか背負うことなく楽しむというのが理想なんです。で、「宗教」でそれをやろうとすると、それが「宗教」であることがある段階で邪魔になってくるという、そういう壁があるわけですね。
 体系づけられていない、というのは、そういう意味では非常にありがたくて、「散在しているものをほかのものと関連付けて見て歩くことができる」という意味では、旅行のときなんかも何気に重宝したりするわけです。
 ……とかなんとか固いことをいきなり書いてみるのどうよコレ。

<近況報告>
  • > 冬コミで高御さんのお顔を拝見しましたが、ご自分で思っている程悪くないと思いますよ。卑下する事ないです
     まあそうだだったらどれだけいいことかってなもんですね……。


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