09/25「歯医者論」

 ということで、高御さんはですね、実に10年ぶりくらいに歯医者に行っているのですよ。
 いや別にこの10年間丸々虫歯ができなかったとかいうわけではなく、できていたのに見なかったふりをしていたというほうが正しいんですが、その結果どうなったかと云いますと、奥歯の横に大穴が開くというなかなか面白い事態になったりしましてですね、それでも歯医者行きたくないだもんでさらに放置した結果、これがもう舌で触っても「ああ穴が開いてるなあ」というのがわかるくらい大きく育ってしまいました。
 これがなんだろうな、ちょっとでも痛みがあるとかそういうあれであれば、泣く泣く歯医者に行こうものなんですが、これがぜんぜん痛くないんですよ。水が染みるとかいうこともなく、その歯で噛もうが水を飲もうがまったく痛くも痒くもないわけです。
 なので、しばらくの間は「別に痛くないからいいんじゃないのではなかろうか」とか思いながら意地でも放置しておいたんですけど、ある日突然、「痛くないのって逆に怖いんじゃなかろうか」と思い始めたんですよ。
 いやだってそうじゃないですか。もうね、鏡で見ても米粒が入りそうなくらいの穴が開いてるわけですよ。普通に考えれば痛くないわけないじゃないですか。なんだろうなこう例えて云えば、すごい可愛い子が「わたし彼氏一度もできたことないんですよ」とか云ってるみたいなそういうアレですよ。これはもう顔云々じゃなくてそのほかになにか問題あるんじゃないかっていうことになってくるじゃないですか。毎日通勤電車の中で鶏の頭もいだやつを齧ってるとか。なにぜんぜん例えになってない。そうかそうか。
 いやまあとにかく「痛くて当然」なのが「痛くない」というのはこれはこれで逆に大問題なわけでして、ものすごく不安になったりするわけですよ。痛覚と云うのは身体が「これはデンジャラスな状態ですよ」というのを教えてくれている指標なわけですからね、その指標がぶっ壊れているとなると、これはもうなんかそういうアレじゃないくらいに大変なことになっているのではないかとこう思ったわけです。
 それであれじゃないですか、今だとネットがあるんで、割と気軽にそういうこと調べられるじゃないですか。それでこう、「虫歯 痛み ない」とかこうその検索無理あるんじゃないのか、みたいな単語で調べていって、「痛くない歯医者を探しています」とかっていうようななんとか知恵袋みたいなのが引っ掛かってきて気持ちはわかるけどうっとおしいわ!なんて思ったりしつつ、それでも執念というのは凄いもので、これがこうなんとかなってしまうわけですね。しかしあのなんとか知恵袋みたいなのはなんとかならんもんか。いまどきのこのネット社会でGoogleの検索窓に文字列打ちこんでリターンキー押すこともできんのかお前は。
 で、まあその、なんとかなった結果なんかを見ると「虫歯で歯が痛くないときは神経が腐り落ちているときが多い」なんて書いてあって、しかも「その場合、神経を抜く必要がある」なんて書いてあるわけですよ。「神経」「抜く」という恐ろしい言葉が二つ重なってるわけです。
 もうね、そんなの想像を絶する痛みなのではないかとこういうことじゃないですか。神経なんて普段触ったりするようなもんじゃないですからね、それをよりによって抜こうってんですから、これはもうたいへんなことですよ。自慢じゃないですけどあたしは人一倍痛みに対しての耐性ないですからね、おおごとですよ。
 しかもですよ、それだけではさにあらず「これがさらに悪くなると」みたいな前置きがあって「神経が腐っていると、そこに死んだ細胞が溜まり膿になって神経があったスペースに入りこんで溜まり、さらには歯肉の下にも入りこむため、顎の骨を削って膿を取りださなければならない」なんて書いてあるわけですよ。
 もうね、顎の骨を削る、なんて考えたくもないわけです。なんかわかんないですけどもね、それでこの不細工面が多少でも改善されるためのものならまだわからなくもないんですが、いやまあそんなもん多少改善されたところでこの面がどうにかなるわけでもなさそうなんで別にいいっちゃいいんですけどそれはともかく、骨を削る、という言葉の響きには実に空恐ろしいものがあるわけですよ。骨なんか本来削るものじゃないわけですからね。
 思えば、あたしと歯医者との壮絶な戦いというのは過去にもあって、一番大きな火種になったのはいつだったか忘れましたが「変なところに生えている奥歯を抜く」というやつで、これはもうまさに戦争でしたね。キャッチコピーを付けるなら今度は戦争だ、というやつですよ。
 だってあなた、この歯は別に「変な所に生えていて歯ブラシが届きづらいから、いつか虫歯になるしそうなるとまわりの歯を巻き込むだろうから早めに抜いといたほうがいいい」というだけのものですからね、その時点では虫歯でもなんでもない、健康な歯なわけですよ。親知らずとかみたいに未熟な歯でもなければ、虫歯になって根っこがへろへろになってるとかそういうんじゃないわけです。
 しかも御自分の歯でなんとなく実感していただけると思うんですけど、奥歯って根っこがすごくしっかりしているわけです。これが虫歯になったりすると根っこがボロボロになってきてああ抜かなきゃみたいなことになったりするわけなんですけど、そうじゃなければ、こんちくしょうとばかりに居座っているわけです奥歯というやつは。
 そりゃあそうです、人の噛む力って何十キロとかそういう力ですからね、それに耐えられなきゃならんわけで、脆くっちゃ困るわけですよ。
 とまあ長々と書いてきましたけども、結局のところなにが云いたいかと云うと「健康な歯は、健康である」ということなわけです。
 で、この健康な歯を抜こうとするとどうなるかというと、これがもう痛いとか痛くないとか云うレベルの話じゃないわけですよ。
 歯を抜いたことがある人ならわかると思うのですが、歯を抜くプロセスというのにはいくつかあって、麻酔をかけたあとに「いったん砕いて抜く」「ボロボロの根っこを揺らして抜く」「力づくで引っこ抜く」なんていうのがあるわけですけど、相手は健康な歯ですから、これはもう問答無用で3番なわけです。
 麻酔をかけてふと横の台を見ると、なんかもう歯の治療ってよりも電気工事に使うみたいなごつい道具が山のように置いてありましたからね、ちょっと覚悟はしたんですけど、そんな覚悟なんか瞬時にひっくり返る感じだったもの。
 方法としては非常に原始的で、麻酔をかけてペンチみたいなので力任せに引っこ抜くわけなんですけど、って簡単に書いてますけどね、こんなもん痛くないわけがない。麻酔してるからいいじゃないと貴方は云うかもしれないけど、麻酔で押さえられる痛みなんかとっくに超えてるわけですよ。しっかり根っこが張った歯ですからね、本来ちょっとやそっとで抜けてしまっては困るものを、ちょっとやそっとじゃない状況にしようってんだから痛くないわけがないわけです。
 もう確かハタチを超えてたと思いますけど、本気で泣きましたもんね。まさかあたしだってね、ハタチ超えて痛みで泣くなんて思いませんよ。思いませんけども、それだけ痛かったんですよ。上の歯だったんで、もう脳味噌に響くような痛みなんですよ。
 あのときは確か一時間近くかかってようやく抜いたわけなんですが、歯の治療の痛みなんて本来十五分も我慢すれば過ぎ去るものが一時間ですからね、終わった後にあたしはなにか悪いことしたんだろうかと本気で悩んだもの。こんだけ痛い思いしてなんで彼女ができないのかとか。まったく関係ないけど。
 ……というほろ苦い思い出以来、極端に歯医者というものが苦手になってしまい、それでもその後親知らずが虫歯にとかかぶせてあったものが取れたとかでイヤイヤ行ったことはあったんですけど、そのたびにもうあたし死ぬんじゃないかくらいの覚悟で行っておりました。
 それからしばらくして、なぜか虫歯にならなくなり、10年近く歯医者のお世話になることもなかったんですけど、また今回こういうことになってしまった以上行かないわけにはいかなくなってしまったわけです。ああやっと話が戻ってきた。
 とにかくこのままほっとくとえらいことになるのは間違いないし、ほっとかなくてももうすでにえらいことになってるかもしれない。だいたい、歯医者さんはなぜか必ず歯を見て「ああこれはひどいねえ」みたいなことを決まって云うのでものすごく不安になったりするわけなんですけど、ネットの情報を見てると、もう即手術ですみたいなことにだってなりかねない勢いじゃないですか。
 いっそことこのままほっといて歯がぼろぼろになれば抜くのも痛くないんじゃないかとか思ったりしたものの、神経が云々で顎の骨がどうしたみたいなのになるとそれはそれでもっと嫌だし、意を決して会社のそばの歯医者に行ってみることにしたわけです。
 で、行ってみてあの歯医者独特のエロビデオで見かけるみたいな椅子に寝転がって、ライトで顔なんか照らされてみると、あのときの恐怖が一気にフラッシュバックしてくるのですよ。もうね、今すぐ「やっぱりいいです」って云って走って逃げだしたくなるわけです。歯医者さんの前ではじめて歯を見せるあの瞬間ほど緊張するものはないね。
 なんせ今回「ちょっと虫歯が痛い」とかじゃなくて、あからさまに米粒が入るくらいの穴が開いてて、しかもそれをかなりの間放置したという負い目もありますからね、これでこう何を云われるんだろうかとどきどきするわけです。「今すぐ手術」と云われてもぜんぜん不思議じゃない。
 とりあえずレントゲンを撮られて、それを見ながら先生が云うには「ああ、ここは歯ブラシが届きづらいんでよく虫歯になるんですよ」あれ。なんかもっとこうアレじゃないのか。この虫歯はヤバいとかそういうあれじゃないのか。「この詰め物(今その虫歯にかぶせてあるやつ)を取って、サイドをカバーするようなタイプに変えれば大丈夫ですよ」
 もうね、先生が天使に見えた。神経とかまして顎の骨削るとか関係なかった。思わず「ああよかった」って呟いてしまいましたよ。
 で、麻酔のときにちょっとちくっとした以外、削っても痛くもないし、そのまま歯型取って次に行ったときに被せて、次にスケーリング(歯石とか取るやつ)して終わりですよ。
 なんか歯の治療も進化してるんだなあと思ったのは、まずぜんぜん痛みがないことと、歯医者のめんどくさいのってあれじゃないですか、一度行くともう何回も何回も何カ月にもわたって行かなきゃいけなくて、金は取られるわ時間はかかるわみたいなそんなようなアレが嫌だったりするわけなんですけど、そういうのぜんぜんないわけです。あれだけほげた虫歯治療するのに三回ですからね。これを進化と云わずして何が進化か。
 というわけで、馬鹿馬鹿しいくらいあっという間に終わってしまったわけですが、知り合いの話によればやっぱり治療によっちゃ痛いものは痛いらしいんで、みんな歯は大切にな。そして今回撮られたレントゲンでまた奥歯に親知らずが生えてきているのを見逃さなかったぞあたしは。

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