終末の過ごし方
イロモノという言葉がある。
一応辞書的な意味について触れておくと、「色物(いろもの) 1・白、黒以外の色をほどこした衣服や織物。2・寄席演芸の中で、講談・落語や義太夫に対して、音曲・曲芸・奇術などをさす語。」(旺文社 詳細国語辞典)とある。解りにくいかもしれないが、(1)の意味はまあ置いておくとして、(2)のほうの意味を見てみるに、つまりはちょっとその本分から外れたもの、というような意味合いのものであろう。「そんなのは色物だ」と言った場合、これは決して好意的な表現ではないことは言うまでもない。
さて、このゲームの業界で「イロモノ」というと、どういったことを指すのだろうか。もちろん厳格な言葉の定義が定まっていると言うわけではないのではっきりしたことなど解ろうはずもないが、おおよその感覚から言うと、つまりは「ゲーム性やその外ゲームの面白さを語るに絶対に外せない必要最低条件はとりあえず置いておいて、そこに本来であれば付随してくるものに重点を置いたゲーム」ということになるであろうか。定義というには少々長いかもしれないが。
では、「付随してくるもの」とはなにかということになると、もちろんそれこそ一つや二つではない、たくさんの要素があるだろう。しかし、こと「18禁パソコンゲーム」という風にさらにジャンルを限定したとすると、これは恐らく「キャラクタの嗜好性」に帰依していいのではないだろうか。
属性という言葉をご存知の方も多いと思う。一般的な意味ではその対象が所属する性質群を指し示す単語だが、これをこういう現場で使った場合、その「対象」はユーザー、即ちプレイヤーであり、「性質群」はその嗜好を指し示す。例えば「メイドさん」が好きで好きで、という人は「メイド属性」だし、巫女さんが好きでという人なら「巫女さん属性」、猫耳娘っていうのか、ああいうのがいいという人は「猫耳属性」となるわけだ。ゲームの本分であるゲーム性なんかはとりあえず置いておいて、そういう「属性」に焦点を当てる・・・つまり、例えば登場するキャラクタを全部巫女さんにするとか、全部猫耳娘にするとか、そういった手段で「属性」を持った人々をターゲットにする作品が、即ち18禁ゲーム業界での「色物」の意味であると言っていいと思う。
こういった類の作品からはもちろん「名作」と呼ばれる作品は生まれ難いのは言うまでもない。たいていはゲーム性を反故にしてしまっているので、そういう「属性」を持っている人にはいいし、キャラクタも可愛いんだけど肝心のゲームがね、という作品が必然的に多くなるからだ。だから「メイド属性」がない人にとっては、「メイドゲーム」には普通手を出さない。勿論、ゲームを選択する際にはその外色々な要素があるわけで、その要素がそのユーザになにかを訴えかけてきた場合は話が別であるが。
さて。前置きが異常に長くなってしまったが、ここで「終末の過ごし方(アボガドパワーズ)」に触れることにする。先の「色物」の話はちょっと頭の片隅に置いておいていただきたい。
この作品は、「終末の一週間前から始まる恋愛アドベンチャーゲーム」である。あと一週間で滅びる世界の中での人間模様を描き出した作品なのであるが、結論から述べてしまうなら、こんなに良質の話はそうはないのではないか、と思う。世界が滅びるという前提のもとで様々な意識のもとで行動するそれぞれの意識が、物凄く秀逸な手法で描き出されているのだ。
たとえば、他の誰かがこういう作品を作ったと仮定する。「世界が終わるまでの一週間を描こう」と。そして無事エンディングまでのストーリーを書き終えた。キャラクタの恋愛要素も、エッチシーンも入れた。さて、結末をどう結ぶか。
あんまり言ってしまうとつまらなくなってしまうのでここから先は触れないでおくが、この作品、この「結末」のつけ方が秀逸なのである。
この結末を、「ストーリーが破綻している」とか、「しっくりこない」などと批判する目も実際にある。しかしそれはあまりに浅い読み方であると私は思う。AからZまで全て説明し尽くす表現技法もあるだろう。それはそれで一つの完成された物語である。しかしそこで、それ以外の物語を否定するとすれば、それはつまりAからYまでを説明し、残りの「Z」をあえて説明しないことで出現する、「言葉で語られない、語ることの出来ないストーリー」に対してまったく目を向けていないということに他ならない。だから、この作品自体は実質的に1時間もあればエンディングまで行けてしまうし、選択肢自体も驚くほど少ないから、「ゲームとしてはつまらない」という批判が出てきたんじゃないかと思うのだ。
しかし、逆の視点から見つめてみると、これはつまり、「言葉で語ることの出来ない世界」を送り出すための表現技法ではないかと思う。これで「終末は来たんだけど助かっちゃいました」とか、そういうエンディングが用意されていたとしたら「短いな」で済むのだが、そういったエンディングが無く、ただ「あの」結末しか用意されていないとしたら、私は間違いなく「短い」のも「ゲームとして単調」なのも、「結末」をより美しくするための演出だと思う。確かにこういう手法と言うのは有る意味で勝負であり、実際に「受け入れられない」向きもかなりの方面であったようなのだが、「好きな人には忘れられない作品」になるのではないか。こういった表現手法は、劇団「第三舞台」の鴻上尚史氏の戯曲ではよく使われている。最後に受け手が、鴻上氏の言葉を借りるなら「なんだかよくわからないけど涙が止まらない」とか、そういうことができる表現手法ではないだろうか。鴻上氏は「核戦争三部作」として、やはり世界滅亡の後の話を書かれているので、もしかしたらこの「終末」とは関係があるのかも知れないが、そのあたりは私の知りうるところではない。
とにかく、演出、音楽、画像全てが、「終末」を予感させる退廃的な雰囲気に満ち満ちているのだ。ここまで「一つのテーマ」にこだわって一つの作品を仕上げるというのは、これは間違いなく凄いことだと思う。演出は上記した通り「秀逸」と呼べるレベルのものだし、音楽もタイトルからゲーム中の曲に至るまで、そういった雰囲気に統一され、泣き出したくなるような曲に彩られた「世界」を浮き彫りにする。そして画像も、秋葉原などでは、この画像に人気のポイントが集中し、ある店舗ではオリジナルのテレホンカードをつけたとたんに予約が殺到してしまったなどというようなこともあったようだが、まあ、この「絵」そのものがただ可愛い、可愛くないで人気が集まってしまうのは寂しいことではあるのだがそれはともかくとして、これも今までにない不思議な雰囲気の絵柄で、どこか浮き出したような、それでいて決して自己主張しない控えめな雰囲気を持つ絵である。これら音楽も絵も、ただ単に「寂しい」のともちょっと違う、かといってただ退廃的なだけでない、例えるなら夏の終わりから秋口にかけての夕暮れのような、例えるなら夏の祭りの終わった後の神社の境内のような、賑わいの裏の期待とうら寂しさに満ち満ちた雰囲気がそこにはある。この微妙な感覚も、「言葉では言い表せない何か」を表現するための手法だとしたら、間違い無く凄いことだと思う。
つまるところ、これは原作者の方に聞いてみないことには解ろうはずもないのであるが、シナリオを書いた方はこれを物語として完成させながら、演出、音楽、絵など全てを含め、承知した上で、わざと「破綻させる」ような展開にしてみせたのではないかという気がしてならないのだ。
さて、ここで冒頭の「色物」の話に戻ろう。
実はこの「週末の過ごし方」という作品、冒頭部分で述べたような「色物ゲーム」に分類されることもしばしばである。それはひとえに、「出てくるキャラクタが全て眼鏡ッ子」だからにほかならない。つまり、眼鏡をかけた女の子が大好きで、という人向けに制作された作品であるというふうにも取れなくはないのだ。
実際、インターネットのホームページや、メーリングリストなどの感想では、「眼鏡ッ子ファンのためのバイブル」なんていう書き方をされているのも見うけられるし、現実的にそうなのであるからこれはどうしようもないことだとも思う。しかし、そこでこの作品が完結してしまっているとすれば、こんなに勿体無いことはないのではないかと思うのだ。
この作品の感想を一言で言い表すことは、少なくとも私には出来ない。「面白かった」とか「感動した」とか、そういう言葉で言い表してしまうには余りに遠すぎる。それはひとえに、この作品が私たちにもたらしたものは、「言葉では語られないメッセージ」であるからなのではないだろうか。だから私たちもこれを「言葉では語ることの出来ないメッセージ」を送り返すよりほかにない。「感動した」という言葉では少々物足りず、「面白かった」という言葉が届かない作品。今までにこんな作品は存在し得なかった。
正直、万人に安心して薦められる作品ではないと思う。かなり人を選んでしまうだろうという気はする。それはキャラが眼鏡をかけているからなどといった表層的なことではなく、「言葉では語られなかったメッセージ」を受けいれることができるかどうか、という点において、である。そういう人には最高傑作になりうるだろうし、提示されない結論に苛立ちを覚える人には決して薦めはしない。もちろん、どっちがいいか、とか、どっちのほうが優れているかというような問題ではなく、「どっちが好きか」というレベルの問題なので、これは誤解しないでいただきたいのであるが。私は寧ろ、ばしっと結論を出されてしまうとちょっとどうもなあ、というタイプなので、こういう「隠れたメッセージ」を送り出すタイプの作品が好きだ、という、それだけの話だ。
この作品が眼鏡ッ子属性に向けられた作品なのかということは私にとってはどうだっていい。わたしは別に眼鏡ッ子に特別な興味があるでもない。ここで「色物」扱いされてしまうとすれば、これは勿体無いことだと思う。しかし、そういった「作品そのものの属性」という意味では、私はこの作品は「色物」にほかならないのではないか、と思えてならないのだ。
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