School Days(Overflow)
項目 | シナリオ | 絵 | システム | 音楽 | 総合 |
ポイント | 2+ | 4 | 3− | 3 | 5+ |
シナリオ:メイザーズぬまきち
原画:ごとうじゅんじ
音声:フル
主題歌:『Still I love you 〜みつめるより幸せ〜』(オープニングテーマ)ほか10曲以上
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<シナリオ>
(※注:今回のレビューは、わずかに展開のネタバレがあります。未プレイの方でも大丈夫なよう極力伏せた感じで行きますが、そういうのはこれっぽっちも見たくないということであれば読まないほうがよいかと思います)
通学電車の中でいつも見かける女の子・言葉が気になる主人公・誠。と云っても何をするでもなく、このままずっと見つめるまま終わるものだとばかり思っていた。が、二学期のはじめ、たまたま席が隣になった西園寺世界に、誠は携帯電話の待ち受け画面に設定された言葉の写真を見られてしまう。しかもなぜか世界は、誠と言葉の仲を取り持ってくれることになってしまい……。
とまあ、そんな感じの出だしです。ちょっと変わっているのは、「誠はこう思った。世界はこう云った」といういうような「地の文」がなく、それどころか画面に選択肢以外のテキストは一切表示されず、ひたすらアニメを見ているような感覚で進行していきます……が、ここについては「CG」と「システム」欄で詳しく触れたいと思いますので、とりあえずここでは割愛します。
エンディングの種類が物凄くたくさんあるのでストーリーパターンも多岐に渡りますが、基本的に流れは変わりません。どのルートにしても、さわやかな恋愛が描かれるとかそういうことは一切なくて、世界と言葉を中心に他の女の子が絡む複雑な恋愛模様というか、もつれにもつれてドロドロになっていく感じになります。
で、まずなにはなくとも、とにかくこの作品、とにかく登場するキャラクタのほとんどが非常に腹立たしいというか小憎らしいというか、品のない云い方をすれば非常に「ムカつく」奴ら揃い。特にこの主人公・誠ですね。いったい何なんだこいつはと思うこと請け合いです。
物語的には、とにかくこいつの優柔不断というかまったく一貫性のない行動のせいで周りのいろんな人間が不幸になったわけですから、もう救いようがないです。世界は世界でこれまた煮え切らない態度を連発して結果的に言葉や周りの人間を悪いほうへ導き、言葉なんて一歩間違えば、と云うか既に間違わなくても絵に描いたようなサイコ少女で最初から腹が立つわ怖いわでもうどうしてものやらと云ったところです(ただし、言葉はある意味でこの作中もっとも行動に一貫性のあるキャラクタであるとも云えます)。
ほかに登場するサブキャラクタたちもそれぞれにめいめい勝手なことをして周りをさらに面倒なことにするという、まともなのは世界の友達の一人である刹那くらいのものです。
ただ、これはある意味でそれだけキャラクタ描写が優れているということの証でもあります。
とにかくまじめに腹が立つくらいのキャラクタだと云うのは、つまりそれだけキャラクタが立っているということに他なりません。人の心を動かすことが「感動」であるならば、その方向性が、キャラクタに対する「怒り」であってもそれは感動たりえるのです。
力のないキャラクタ描写では、どんなに腹の立つように仕向けたところでキャラクタへの感情は何もゆすぶられはしません。少なくとも、言葉に対する苛立ちや純粋であるが故の怖さというのはこれでもかとばかりに書き込まれていて、見ていても思わず寒気がしてきます。
これはまた別の項目にも関係してくることではあるのですが、そのタイトルの示すとおり、中学生とか高校生とかそのくらいの「世界が狭く多感な時期」というのは確かにこんなこと考えてたよなあとか、あの時期にこんなことあったら同じことしてるかもしれないなあというような、しかし決してそれは頭の中だけで作り上げられたであろう仮想の過去に基づく「想像上のリアリティ」が存在しています。
この「想像上のリアリティ」については後ほど詳しく書くとして、とりあえずこれは間違いなく凄いことだと思うのですが、しかし、主人公に対する苛立ちは、決してこうして作られた物語上の設定だけが原因ではないと思うのです。
個人的に、この作品に対するまず第一番目の不満がここにあります。先に主人公について触れた文章で、頭に「物語的には」と付けたのはこれが理由です。
この誠という男を、おそらく製作者側としても、見ていて苛々するような優柔不断の男に仕立て上げたかったのはおそらく間違いないでしょう。
事実、彼は最後のほうで自ら「俺の優柔不断のせいでこんなことになった」というようなことを何度も云いますし、それによって関係がドロドロになることがそもそもこの作品の一つのテーマみたいなものですから、それを演出するにはシナリオ側で主人公を嫌な奴に仕立て上げなければなりません。
ですから、主人公に腹が立つことがシナリオのマイナスポイントではないのです。それどころか、主人公の人間性に腹を立てることができればできるほど、物語としては優れているということになります。
しかしこの作品では、その具体的な方法がちょっとどうかと思うところがあって、とにかくこの主人公、行動が非常に不可解なのです。
とにかく、変な云い方ですが「泥沼になるほうへご都合主義的な動き」をとるのですね。そりゃわざとそうして一貫性のなさを演出してるんだろうとそういうことになるんですが、これはちょっと度を越えているというか、行動原理が明らかにおかしいところが目立ちます。「ちょっと一貫性がない」とかじゃなくてもう完璧に二重人格でもなければ説明のつかない行動があまりに多すぎてしまっている感じとでも云いますか。
結果、「優柔不断な主人公への怒り」というのは、キャラクタとしてのそれを超えた軋みに変化してしまい、その軋みが大きくなる後半へ行くにつれて物語そのものが徐々に崩壊しているような印象さえ覚えるのです。
そしてもう一つ、上の主人公のところでも少し書いた「ご都合主義的な動き」が物語全体にあるのもちょっとどうかなあと。
とにかく物語のテンポがものすごく早く、秘密の相談をしているところに「たまたま」相手がいましたとか、今日だけは「たまたま」早く屋上に来たことで「たまたま」相手と主人公のエッチを見てしまうだとか、そういう「たまたま」がいたるところにあります。
前半部はわりとそうでもないのですが、これが後半へ行けば行くほどどんどん顕著になり、本来であればものすごく時間がかかって起こるであろう事象が駆け足でどばっと起こるので、話の流れによってはこれがものすごく不自然になってしまっているのです。
物語そのものの流れというか、その結末は多くは非常に絶妙なんですよ。ほぼすべてのエンディングにおいて、主人公は誰かの女の子と結果的に仲良くなるわけなんですが、それでも残されたもう一人ないしは複数の女の子たちは決して幸せにはなりません。
ハッピーエンドに慣らされた物語展開では、一人の女の子とくっつくけどもう一人の女の子も結果として納得してみんなそれなりに納得できるところでした、おしまい、ってなもんなんですけれども、実際にはそんなにうまく物事が運ぶはずなんかありません。
ましてある程度の年齢ならともかく、おそらくキャラクタに想定されている年齢は(まあその、公式にそうは云えないにしても)高校生くらいの頃の多感な時期ですから、真剣に相手のことが好きになればなっただけもう一人の相手を選ばれてしまったときのショックは大きいはずです。
ですので、素直に「じゃあ相手を許そう」などとすっきり終わるなんてことは考えにくいでしょう。そのへんがこの作品では非常に巧く描かれていて、Aさんとくっつきました、という一見するとハッピーエンド的な終わり方をしたところで、もう一人の女の子Bさんをその直前にフってBさんを悲しませたまま、Bさんのその後は一切出さずに終わります。つまり、この状態ではBさんは不幸のままなわけで、よくあるその代わり主人公の友達とくっつきましたとかそういうようなフォローは一切ありません。
そういう意味で、非常にシビアなままを描いているという点についてはかなり物凄いというか、それがゆえに印象的だったりもします。
これこそが、上で触れたような「想像上のリアリティ」という錯覚をうまく利用した物語展開であると云うことになりましょう。
なので、エンディングによってはサイコなエンディングと云うか、かなりキツいエンディングもいくつかあるんですが、これもまあそういう意味では一つの結末として受け入れることもできなくはないかな、という感じではあります。
最近はそういうちょっとサイコっぽい描写を入れるとマニアックな受け方をするという風潮も少なからずあって、半分はそういうところを狙ったのかなという穿った見方もできなくはないんですけれども、この作品においてのこういうエンディングには若干の意味があるということにおいてそこにさほどの不自然さや意外性はありません。
否、意外性ということからすれば、確かにこの一見してさわやかなパッケージからそういうエンディングを想像するのは難しいので、そういう意味ではこの結末は衝撃的であるかもしれません。ですが、しかしそれだって物語を読み進めて行けばおそらくすぐにそんなこともありそうだなあというような想像がつくと思います。
と、ここで急に話を脱線させて、今回何度か書いている「想像上のリアリティ」について触れさせていただきます。
「想像上のリアリティ」と云うのは、物語を紡ぐ上で、その書き手がたとえ無意識にでも利用する、あるいは利用せざるを得ない一種の錯覚です。
人間の感覚というのは実にあいまいで、覚えているつもりでもその詳細を忘れてしまっていたりするものだというのは誰でも経験則として持っているでしょう。
で、確実に見た記憶でも、それまで持っていた固定観念と密接にリンクして新たな記憶を作り出してしまいます。あるいは、一度も見たことがないものであっても、それまでの固定観念を経験の意識へと作り変え、経験でも固定観念でもない新たな概念を頭の中で作り出してしまうのです。
都会で生まれ育った人が、田舎の景色を見て「懐かしい」と感じたりすることというのはよくあると思うのですが、これは、そういう田舎の景色というのは「こういうもので」、それは「懐かしく感じるものである」という二種類の固定観念が、存在しない経験を作り出したことから生じる感覚です。
ここではそれを仮に「想像上のリアリティ」と呼んでいるわけですが、そういうものが普段は経験することのできない世界を描くことの多い物語において大切な役割を果たしているのは云うまでもないことでしょう。
そして何度か書いているように、『School Days』という作品において、この「想像上のリアリティ」という錯覚はあちこちに多用されています。そのもっとも顕著なところが、先のような「思春期の頃の行動原理」とでも呼ぶべき心理状況であると云うことになりますでしょう。
つまり、思春期の頃の恋愛というのは「ああいうものだ」という概念がまずあり、それが実際の自分の経験はどうであれ……否、むしろ、そういう極端な経験から遠いところにある「普通の」思春期を過ごしてきたであろう、わたしを含めた多くの人々にとっては、程度の差こそあれ変なリアリティを持つわけです。
ですから、この作品におけるサイコな展開が実に恐怖であるということについては、これはもうまったく理解できないわけではありません。そういうことからすれば、急すぎる物語展開も、或いは冒頭に書いたような主人公の不可解な行動さえ、その誤差の中にあるよう計算されていたのかもしれないわけです。
しかし、その「想像上のリアリティ」に依存しすぎることは、逆に大きな危険性を伴います。すなわち、それがあくまでも想像上の経験から来るものであるが故に、そのラインから少し外れると物語そのものの虚構性が非常に高くなるということです。実際に存在していない経験を存在しているかのように見せかける錯覚なわけですから、これから少し外れれば、それはすべて「嘘」になってしまうのはある意味で当然のことでしょう。
マグリットの絵のように、田舎の牧歌的な青空と真っ白い雲だって、世界にたったそれだけしか存在しなければ、それは田舎の穏やかな景色ではなく「呪い」になるわけです。
とまれ、わたしはこの『School Days』という物語が、この罠に片足を踏み込んでしまっているような気がしてなりません。
それは単に「人を選ぶ」で解決していいものなのかはわたしにはわかりませんが、個人的なことから云わせて頂けば、物語が終わったところでの「終わった感じ」というのがあまりにも希薄なのが非常に気なりました。
それはなにも、ハッピーエンドではないからとか、もう一人の相手がどうなったままわからないまま終わるとか、そういう物語の内容に対してではありません。
なんだかこううまくは云えないのですけれども、もうちょっと根源的な、物語を構成する「何か」が足りない感じとでも云うべきものです。
物語の内容でしこりを残して終わる終わらせ方は一つの手法ですが、その物語の前段階にあるしこりは、もしかしたら物語全体に歪みを作る癌なのかもしれないのです。
<CG>
ほぼフルアニメーションで、ほとんど全編にわたって画面が動いているという画期的な画面構成です。ゲームによくある「背景の上にバストアップ重ね合わせ」ではなくて、テレビのアニメのようにカメラ位置の変更で次々とシーンが進んでいく感じですね。
ですから、云い方によっては「オール一枚絵」と云うこともできるかもしれません。当然立ち絵などと云ったものはなく、カットインで表情が入ってきたりすることで見ていて飽きることがありません。
そういうあれですので、CGのクオリティというのはかなり高いものが要求されるとは思うんですが、そのへんはクリアしてる感じです。見てくれではわりと女の子がみんな可愛い感じがして、それが綺麗に動くところなんかある種感動ですらありますでしょう。コンセプトがコンセプトだけに背景にも力が入っていて、その演出はなかなか見事なものです。
まあその、アニメである性質上、影のつけ方がものすごくかっちりしていてそこに違和感があったり、アップのシーンでは線にジャギがあったりしてちょと悲しくなったりもするんですが、まあそれも仕方がないのかもしれません。
ただ、なんか誠の肌が妙にくすんでいるというか、顔色悪いような気がしてそれが妙に気になりました。他のキャラはそんなことないのになんでなんだろう。
<システム>
とにもかくにも目立つのはそのシステムでしょう。とにかく何度か書いたとおり、ほぼフルアニメーション。安っぽく部分部分が動くとかではなく、テレビアニメを見ているようなカメラ割りなどで限りなく自然さが出ている感じ。
なんとなくみんなが昔に云っていた、「エロゲーもアニメみたいな画面割にすればいいんじゃないか」というのが実現したんだなあという感じですね。
いろんな意味で相当手間がかかっていると思いますし、これはこれで新しい形として楽しめます。
しかし新しい試みであるが故におかしいところもあって、なぜか同じキャラが喋る同じシーンでも口パクするところとしないところがあったりとか、表情と声がまったく違っていてものすごく違和感があるとかあるんですが、一番致命的なのは「口パクをしているキャラの口の動きに合わせて違うキャラの声がする」というところでしょう。
地の文がない以上、画面と声が表現のすべてなのですから、これをやられてしまうともう駄目です。この時点でリリースされている最新のパッチを充ててみたんですが、やっぱりそれは完全には直っていませんでした。
そしてさらに、そういう「新しい試み」であることの評価を抜きにして語るのであれば、そのシステムであるが故に非常にダルなシステムであるということもまた一つの事実。
地の文がないということはテキストを戻すバックログもできないということですし、既読メッセージスキップもシステム上搭載することができません。
一応、何倍速かで飛ばせるモードもあるんですが、これをやると早く進むものの声が出ないですから、いざもう一度やりなおそうと思ったときも迂闊に飛ばしまくるというわけにはいかないのです。
このへん、ある意味仕方のないところではあるんですが。基本的な進行は、第一話から選択肢によってどんどん分岐してそれぞれの話で違うエンディングを迎え、第六話で物語そのもののエンディングになる感じなんですけども、それゆえに全部ちゃんと見ようとすると膨大な時間がかかります。
あと、CGモードや音楽モードなど、いわゆるオマケ要素のものは一切ありませんので、エンディングがたくさんある割にはどこまでが見たエンディングなのかわかりません。
一応「Replay」というのがあって、エンディング終了時点でセーブしておけばそのプレイを通しで見ることができるという、まさにこのフルアニメーションシステムでしか成立し得ないシステムが搭載されているのですが、それだって結局は一度見たものを頭からフルで見直すための手段に過ぎません。あのCGがもう一度見たいとか、あるいはあのエロシーンがもう一度見たいとかそういうことができないようになっています。
システム上そういうのが作りづらいというのはわからないではないんですが。
しかしこのシステムの一番のメリットは、アダルトシーンがえらくエロい感じになることではないかと思います。『加奈 〜おかえりっ!〜』で人を小馬鹿にしたような部分アニメーションでげんなりした人とかが見るとびっくりするんではないかと。
ただ、うちでは不具合はさほどなかったんですが、結構バグが多いという話もあるのでこれからやる方はご注意を。
<音楽>
フルアニメーションというシステムの都合上、あんまり音楽が鳴っていることがないんですが、BGMとしては耳障りになることのない、自己主張のしない曲が何曲かある感じですね。
逆にボーカル物はこれでもかとばかりに大充実していて、しかもどれも割と名曲だったりします。なんですけども、音楽モードがないので結局聴くにはいちいち話ごとのエンディングまで行かなければならず面倒きわまりないです。
声優さんはみんな巧い人が揃ってます。特に世界、刹那、乙女あたりはテンポがよくて聴いていて心地よい感じ。
なんせこのシステムですから、ここでこけるとえらいことになってしまうわけなんですけれども、そのへんについてはほとんど問題ありません。
<総合>
『君が望む永遠』とかそういうのと同じところを目指したんだと思うんですよ、この作品も。
いわゆる「鬱ゲー」みたいな呼び名で呼ばれているジャンルのもので、なんかこう後味の悪い結末で閉めることで終わった後に意図的に爽快感をなくして印象付けるという、ハッピーエンドで物語は終わるものであるという常識を逆手に取った手法なわけなんですが、じゃあそこにおいてこの作品がどこまで成功しているのかということについて若干の疑問はあります。
システムも斬新過ぎるほど斬新ですし、物語そのものでも「シナリオ」の項目で触れたように、結構凄いことにチャレンジしようとしているわけです。
なんですけども、個人的に面白かったかどうかと云われればちょっと迷わざるを得ません。
繰り返しますが、それは物語の内容とは関係のないところのことでの話です。どうもそのチャレンジが中途半端に成功している感じがぬぐえない、と云うか、確かに終わってから印象に残りはするんだけど、それはもしかしたら凄惨な終わり方をするいくつかのエンディングが、物語の中身ではなく凄惨であるからという理由だけで印象に残っているだけなんじゃないかという疑問がものすごくあって、この印象や後味が物語的なものから来るのではないところにそのあたりの謎があるような気がするのです。
わたしは別にハッピーエンド主義者ではありませんから、どんなとんでもない終わり方をしても、それが物語の中できっちりと収まっているのであればいいのだと思います。
物語は物語であって現実ではないのですから、その結末に意味があればそれでよくて、逆に物語である以上はその結末に意味を持たせるためにそういう終わり方しかできないのであれば、物語の意味のためにその結末は用意されるべきなのです。
ですから、ハッピーエンドでみんなが幸せにならないとか、あるいはああいうエンディングはやりすぎだとか、そんなことは物語の評価とはなんの関係もありません。それがきっちりと意味を果たすのであれば、そういう結末も用意されなくてはならないわけですから。
その結果、いわゆる「鬱ゲー」になってしまったということであれば、それはきっと名作となって然るべきです。
これはまた主人公をはじめとするキャラクタに不快感を覚えたからということに対しても同様で、それだからこの作品はつまらない、と云っているではありません。
それだって、そこにきっちりとした理由と意味付けがなされ、例えば誠であれば「行動が一貫しないという一貫した行動原理」というものすごく不思議な云い回しですが、これがきっちり成されていればやはりそれは名作なのです。
お互いに幸せになって終わるエンディングがないからとか、キャラクタが軒並み苛々するからとか、それを理由にこの作品のシナリオに対して疑念を抱いているわけではないということは、これはこの文章において非常に大切なポイントです。
しかしこの作品では、そのへんの意味付けや一貫性が曖昧にされたまま終わってしまっている印象が残りました。
なんとなくこういう展開になって、なんとなくこういう終わり方になったと。しかもそれは、とりわけ主人公キャラクタの、設定されたキャラクタ性とは別のところにある説明のつかない無理な動きによって齎されたものであるというあたりに、どうもそういう物語ではないところで異常な違和感を覚えてしまうのです。
キャラクタの描写と云うことに関してはこちらが本気で苛々するほど書きこまれているわけですし、結構プレイ中はじっと見入ってしまったりするところもあったりもしますから、そういう意味では悪くはありません。
ないんですが、「シナリオ」の項目でも書いたように、なんだかこう何かが足りない気がして、それが故にどうしても、終わった後に物語そのものの印象が薄い作品になってしまているような気がします。
果たしてそれは、「わかる人にはわかる」というそれだけのことなのか否か。その答えは、一個人であるわたしには決して判りえないことなのです。
2005/05/16
2005/05/18 若干加筆修正
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