CROSS†CHANNEL(FLYING SHINE)
項目 | シナリオ | 絵 | システム | 音楽 | 総合 |
ポイント | 4 | 4− | 3 | 3 | 8− |
シナリオ:田中ロミオ
原画:松竜
音声:有
主題歌:有(エンディング:『CROSSING』)
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<シナリオ>
この作品、必要最低限のネタバレをしないことにはあらすじすら語れないので少しだけネタバレを含めるならば、「世界が滅亡した後、放送部という部活動を通しての少年少女たちの話」ということになります。これ以上の説明をするのは直接のネタバレ部分に触れないでは不可能なため、とりあえずはこれ以上のところへは突っ込まないようにして話を進めます。
少しばかり自分語りのようになってしまうのですが、ストーリーや舞台設定などを聞いたとき、わたしはなんとなく演劇戯曲『スワン・ソングが聴こえる場所』で語られるワンエピソードことを思い出していました。
核戦争によって滅びた世界。金をかけた、頑丈な核シェルターの中で無事だった一人の大富豪。食料も水も十分だったシェルターの中で過ごすうち、彼は他の場所へ行く最後の船が出るという知らせを聞いて外へ出ようとするが、食べすぎと運動不足で太りすぎていて外へは出られなかった。そこで彼は、オーディオから廃墟の町に向かって、滅び去った人類へのレクイエムとして曲を流す……というものです。
もちろん、世界滅亡というタームこそ同じであっても物語も舞台設定もまったく異なりますから、これがどうしたということではありません。ありませんが、これはどことなく、この作品の性質のようなものを物語っているのではないか、という気がするのです。
物語というものは(と突然大上段に構えてみますが)、起承転結とその展開を支える論理性によって成り立っています。
逆に云えば、論理性に彩られた起承転結の存在しない物語というのは、物語として破綻している、ということになります。
なぜかここではよく例に出される「かぐや姫」を例にとってみましょう。
子どもが欲しいおじいさんとおばあさんがいて、山の中で光る竹を見つけ、そこから美しい女の子を授かる(「起」であり、光る竹という読者に対する「伏線1」)→すくすくと育つ日常生活(「承」であり、転結パートへの演出)→毎日泣いたり不安そうに夜空を見上げたりしはじめる(「承」から「転」への連結であり、それはなぜかという疑問を抱かせる「伏線2」)→実はわたしは月の生まれなのだという告白(「転」であり、伏線1・伏線2の「論理的説明」)→かぐや姫が月へ帰る(「結」であり、すべての論理と物語の収束)……という感じになります。
これでわかるとおり、起承転結のそれぞれに存在する意味があり、また、それは次のパートを裏付ける論理性によってのみ支えられているのです。
無論、その手法として、「転」を抜いたり「結」を抜いたりして、音楽で云う所の不協和音を楽しませる手法もありますが、それはあくまで基本原理の応用であって、本来あるべき物語論そのものを否定するものではありえません。
ここでまたさらにどーんと話を脱線させまして、表現というものにはさまざまな手段があります。
映画、テレビドラマ、演劇、詩、漫画、小説……もちろんゲームもそうですし、音楽や短歌なんていうものだって同じでしょう。
そして大切なのは、これらがそれぞれ独特の表現技法を必要とし、またそれがゆえに結果として独自の表現を受け手に見せてくれる、という事実です。
たとえば漫画を描くのが巧い人は、必ずしも小説を書くのが得意というわけではありません。漫画でどんなに巧いストーリーを見せてくれる人であっても、じゃあそれを小説にしたらと簡単にできるものではないのです。
これは当然のことで、漫画と小説では表現の方法がまったく異なるからです。そこには決して相互乗り入れはありません。
無論、漫画も小説も映画の脚本も短歌も得意という人だって多々おりましょうが、それはそこに必要とされる表現の技術が近似しているからではなくて、その人にそういう素養があったというだけの話に過ぎないのです。
ですが、それが故にわれわれは形式の違う物語表現をいくつも持っている、と云いかえることもできます。
少々トートロジーめいた云い方ですが、そこに表現されるテーマが同じであっても表現手段によっては異なった結果が出てきますし、また逆にある特定の手段でないと表現できないこともあります。
もしそうでなくて、漫画でも映画でもテレビドラマでもなんでも同じような表現結果が得られるのであれば、こんなにも多様な表現手段が生き残っているということそのものがやはりおかしなことです。
演劇というメディアは、その中でも殊更に特殊です。ほかの表現手段では表現できないことを表現するという意味合いにおいて、特殊な舞台設定の許容範囲が広いのです。
無論、演劇であってもきちんとした物語の起承転結を持った作品だって多々ありますでしょう。
シェイクスピアに代表されるような古典演劇や、誰もが退屈な思いで見たであろう小学校の頃の演劇教室などに代表されるものがそれです。それは演劇ならではの起伏よりも、映画のような物語の完成を目的として作られており、極端なことを云えばその時代に「映画」という技術があったのならば、シェイクスピアは映画を撮っていたのではないかと思わせてくれるわけです。
それに対して新劇的な要素というのは、物語の理屈を根底から破壊します。
基本的な物語のふりをしながら、そこにあるのはただメッセージだけであり、観客もまたそれを許容します。
これは演劇という、限られた舞台の中だけで世界を「描かなければならない」表現手段の逆襲でもあるわけですが、そこには先に書いたような、起承転結に伴う論理性など必要ありません。
また、時によっては舞台と地続きにされた観客席の観客を物語の中に取り込むことさえ可能になります。
これは演劇以外の表現手法では基本的にありえません。ほかの表現手段でこれをやってしまったら、それは世界観そのものの崩壊すら意味します。
例えばゲームのシナリオで、キャラクターが主人公ではなくプレイヤーに呼びかけるようなギャグというのを多々見かけますが、あれが(個人的に)ものすごくちぐはぐに感じるのは、物語という閉じた世界をそれが破壊してしまう行為だからに他なりません。
と、ここでようやく話がこの作品に戻ります。この作品が目指したものがここであるかどうかは解らないのですが、結果としてこの新劇的表現というものがゲームという別ジャンルの手段において見事に生かされているのです。
本来、他の表現手法では表現できないものを表現するものが演劇……新劇的手法である、ということは先に書きました。
ということは、これは大きな矛盾をはらむことになります。
表現できないものを表現するということは、すなわち「見える透明人間を作る」と云うようなもので、言葉そのものが本来ありえない二つの逆説的要素を持っています。
ですが、これはあくまでもそれぞれの表現手段を切り離して個として考えた場合のことで、例えば「テレビで演劇をやる」「演劇で映画をやる」ことだって本質的には可能なわけです。
ただし、それはそのメディアが本来持ち得ない効果を表現として持たせるということなのですから、これは考えるほど簡単なことではありません。否、やろうとするのは簡単でしょうが、それを表現として完成したものにするのはきわめて困難でありますでしょう。
例えば、世界の滅亡、という物語の根底を描くエピソードです。
どうしてこのようなこと……つまり、核戦争や大地震、異常気象なんていう直接的に世界を滅ぼす理由もなく突然に訪れた、それも都合よく主人公たちだけが生き残る「人類滅亡」という舞台。
これの理由というのは後に語られることになることはなるのですが、しかしそれはあくまでも概念的な説明でしかなく、なぜそのような(都合のいい)設定になっているのかという「論理的説明」はありません。それは本質ではないからです。
動物は片っ端からいなくなっているのに植物はなぜ生きているのか。もし突然に人が消えたらあちらこちらで火事が起きたりして大変なのではないか。人類が滅亡したというのに主人公たちは落ち着きすぎではないのか。
そういう疑問は、確かにいわゆる「物語」的解釈であれば当然持ちうるものなのですが、しかしこの作品に対してそういう疑問を抱くのはちょっと違うんじゃないのかなと思えてならないのです。
結果として物語が古典的(便宜上こう呼ばせていただきます)な物語ではなかったという話であって、まず「それはそういうものである」と受け入れないことにはこの作品の魅力は見えてきません。
細かいことは気にするな、ということではなくて、舞台の設定がそうである、ということをプレイヤーは受け入れる必要があるわけです。数学で云えばそうなるけど決して証明できない「公理」というやつですね。
まずそういう視点から見れば、この作品は断然面白くなってきます。
人類の滅亡だからそれにむかってどう生活をするか、ということではありません。それは古典的物語が受け持つことです。
そうではなく、ここでは読み手……すなわちプレイヤーも参加した世界観の構築がメインになります。
最後にこれをする、という目的はなく、ただただ時間を共有し、読み手は観察者という「役割」を与えられてそこにいるのです。
それはおそらく、この作品のメインテーマとなっているエピソードと必ずしも無関係ではありえないでしょう。
だからこそ、たとえば「女子高生だとか高校生だとか生徒手帳なんていう言葉はこの世に存在しないのだ(倫理機構の言葉規制を捕らえたギャグ)」などというような、その中で我々の世界を意識させるような主人公たちの台詞ないしは行動も軋むことなくそこにありつづけます。
世界を説明する地の文が既に主人公のものではなく、我々の見ている視点のものであり、これによって我々は、向こう側の世界とこちら側の世界が地続きになっているということを再確認できるわけです。
つまるところ、物語を物語や世界の中から見る「メタフィクション」とでも呼ぶべきもの……これはまさに新劇の持つ要素であって、物語の基本を壊すことで成立するものです。
ただ、それでもただ単に謎を謎のまま残して雰囲気だけ伝えるというのではこういうものは出来上がりません。古典物語的な伏線をしっかりと拾い出し、舞台設定ではない謎はしっかりと収束させることが大前提になります。
この作品、物語の途中に提出された謎――たとえば主人公と曜子の関係――のほとんどはきっちり回収されます。
だから大きい視点から見れば物語的な収束は美しいくらいについているのですが、物語以前に前提としてある「なぜ」には答えは出ませんし、そもそも答えなんて存在しません。
それがゆえに、おそらくこの作品に「感動する完璧な物語」というのを求めるのは難しいでしょう。もしそれを求めると、謎がただ謎のままに残りつづける、わけのわからん話ということになって終わってしまいます。
そして、そうではないのがこの作品の凄いところだと思うのです。
もうちょっと表層的なところを見てみましょう。
この作品、全編にわたってとにかく笑いテーストに溢れています。それはパロディだったりメタ的なものだったりさまざまなのですが、このへんはもうそういう難しいことをおいといても楽しめます。
もちろんシリアスなシーンはシリアスなシーンになるのですが、その際の言葉一つ一つがとても読みやすくて読んでいて疲れないし退屈しません。次のシーンはどうなるんだろうという「先が気になる」展開が続きます。
あえて新劇的な観点を放棄したとしても、謎は謎として残したままでこそあれ物語として心地よい読後感が得られるのはこのためなのでしょう。テンポがよく非常に読みやすい文章です。
そしてこれは、キャラクターたちの台詞回しなどから察するにおそらく意図的にだと思うのですが、主人公たちの行動や設定が、ステレオタイプのアダルトゲームのそれをなぞって作られています。
ボコボコ女の子たちに殴られる主人公、なんてのはその典型ですね。
それを使い古された設定だということをまず踏まえつつ、物語の中から物語を見ようとする視点が捕らえどころのない高揚感(というのは聊か大げさですが)を生みます。ひいては、そこまで来ればそれが物語レベルにまで昇華されていて、ストーリーそのものが「アダルトゲームの展開・手法」をなぞる感じになっているのはもはや必然でありましょう。
この作品における一週間単位という重大な時間概念(これはまた重大なネタバレなのであえてどういうことなのかは伏せます)は、まさに一般的なアダルトゲームの1キャラクターを攻略するというプレイヤーの行動そのものです。
世界そのものが、一般的なアダルトゲームで描かれるシチュエーションそのものになっている、と云ってもよいでしょう。テキストの中に「攻略失敗」などというタームが出てくるところなどは実に象徴的です。
それこそがすなわち、メタフィクションであり、ひいては「メタ・アダルトゲーム」です。
あの「生きている人、いますか?」という台詞や、はたまたエピローグで語られる一連の台詞は、そういう視点から考えればプレイヤーのいるこちら側の世界へ向けられた、とんでもない深みを持つ言葉であるとも云えるのです。
この文章、自分で書いておきながらなかなかに伝わりづらいと思います。
今回、内容についてほとんど触れなかったのは、内容について触れることがすなわちネタバレになってしまうというのもあるのですが、それと同様に、未プレイの人にはとりあえずはこの作品の持つ雰囲気を感じてもらいたい……というのが大きいからです。
ギャグで笑いながら最後に物語的な美しさを感じるもよし、物語の中から見る物語という要素や雰囲気を楽しむのもよし。そういう楽しみ方ができる一作です。
<CG>
一枚絵や背景、立ち絵どれもクセもなく綺麗な絵です。特に立ち絵はなかなか表情豊かで見ていて楽しくなる感じ。そのほか、主にギャグシーンで挿入される小さな一枚絵というのもあって、これが実によくアクセントになっている感じですね。お笑いのシーンをさらに盛り上げてくれる見事な演出だと思います。
<システム>
いわゆる選択式アドベンチャーで、オートセーブ機能を使うと不具合が出るそうなのですが使わなければ影響はないらしく、うちでは特に問題はありませんでした。
ただちょっと、若干システムとしては使いづらい気がします。
スキップも高速だしセーブの数も豊富なんですが、そのメニューが一番上にマウスを持っていったときのみ出る(ちょうどWindowsを使っている人なら、Windowsのタスクバーを「自動的に隠す」設定にして上に持っていったときな感じを想像してください)というのがちと問題。
右クリックでセーブ・ロード・スキップなどのコマンドが実行できればいいのですが、右クリックは単にメッセージウインドウの消去なのでたとえばメッセージスキップしようとか思ったらマウスを上に持っていってにょきっと出てきた「スキップ」ボタンを押さなければなりません。
スキップならまだいいんですがバックログが不便ですね。ホイールマウスを使っていればホイールでログの読み返しができるんですが、そうでないときはマウスのポインタをバックログボタンにあわせて押す必要があり、マウスがちょっとずれるとバックログ中にバックログボタンがなくなってしまい、また現在の位置まで戻ってしまいます。
つまり、深いところまで読み返そうとすると、ホイールマウスでないとちょっと面倒なんですよ。あとはバックログの閲覧できる量があんまり多くないというのもちょっと欠点かもしれません。
さらにこれはうちだけかもしれませんが、なぜかフルスクリーンにできませんでした。フルスクリーンにしようとすると、画面の大きさは640×480サイズのまま画面の左端に移動するだけという感じ。
別にフルスクリーンて個人的にはあまり使わないんでさほど影響はありませんでしたが。
画面の切り替えとかの演出はほんとに凝っていて綺麗です。
<音楽>
曲も劇中曲はどこか退廃的な感じのするいい感じの曲が多いのですが、印象的なのは声ですね。とにかく巧い。
巧いというのは技術じゃなくて、舞台の演出として巧いです(それはまあつまり技術なんですけど)。
男性キャラたちはまあちょっとアニメなんかが好きな人ならば声を聞けばすぐにあああの人かとわかる人なんでこれはまあもちろんなんですが、女性キャラの特に七香ですね。
今までいろいろアダルトゲームで声優さんの演技というのを聞いてきましたが、台詞の抑揚とかトーンとか間の取り方とか、こんなにナチュラルにキャラクターに溶け込んでいるのははじめてかもしれません。
物語的に大きな意味を持つ七香というキャラクターですが、それはこういうところにも演出されているような気がします。
<総合>
これをどう判断するかというのはなかなか難しいところで、人によって求めるものによって大きく違ってくる気はします。
先にも書いたとおり、物語的な感動を求めた場合は確かにその物語によって感動することは出来ますが、そこに残されたままの謎が非常に難しいということになりますから、これは仕方がないところでしょう。
ストーリーの内容ではなく、そういう視点から見ればこれは非常に難解な話であるということができると思います。シナリオの項目でも書いたように、これはすなわちアダルトゲームそのものの世界観であり(一般的なアダルトゲームの域を抜け出していないということではなく)、アダルトゲームをプレイするプレイヤーそのものの概念化であるというのは、今まで多々あったメタ・ゲーム的世界観の作品が決して成功し得なかった領域です。このへんをどうもなかなかうまく云えなくて非常にもどかしくはあるのですが。
だからこの作品、今まであったどんな作品にも似ていません。同じように世界の滅亡を描いたというところでは『終末の過ごし方』あたりの作品が出てきますが、あの作品が描こうとしたものとこの作品に描かれたものはまったく別のもので、それはコンピュータプログラムのC言語と英語を「どちらも言語だから同じ」と云っているようなものです。
この二作品には、アダルトゲームであるということと、人類滅亡というのをタームにしたところしか共通点はありません。寧ろ、同じシナリオライターなのではないかと噂される『家族計画』のほうが近いです。ただしこちらのほうが、『家族計画』よりも直接的だという大きな違いはありますが。
あらゆる意味でものすごく実験的な作品ですし、個人的には面白いかどうかと云われるとすぐにええ面白かったですと答えていいものかどうかということは大いに迷うところではありますが、しかし後味はよいですし、また古典的物語とは違った意味での非常に質の良い物語を楽しませていただきました、ということになります。
いろいろな楽しみ方ができるという意味では、やっていない人に薦めるというよりも、やり終えた人とこの作品についての話をしてみたい、と思わせてくれるような作品だと云えますでしょう。
2003/10/03
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