CLANNAD(KEY)

項目シナリオシステム音楽総合
ポイント5−4−4−5+
コメントキャラによって若干質に差がある気はするものの、基本的にはうまくまとまっている感じ。背景は綺麗。立ち絵、イベントCGは時々ちとどうかというものが。目新しいところはないが、バグなど目立った問題はなし。全体としてフラグはきつめ。流石。そんな感じ。歌ものより劇中曲が個人的にはお気に入り。間違いなく名作。びっくりするようなどんでん返しがあるわけではない、良質のファンタジー。
シナリオ:麻枝准/魁/涼元悠一
原画:樋上いたる
音声:なし
主題歌:有(オープニング:『メグメル』/挿入歌:『Ana』/エンディング:『−影二つ−』『小さなてのひら』)

-ファンタジーとしての本質-

<シナリオ>
 まず、いつもならば最初にあらすじ程度のストーリー紹介はしておくのですけれども、この作品に関してはあまりストーリー概要を説明することに意味があるとは思えませんので力いっぱい省略してしまいます。別に事細かに説明してもいいのですが、どちらにしてもそれはうわべだけのことで、その言葉以上の意味は持ちえません。
 それがゆえに……と云っていいものかどうか、この作品のシナリオを語るということはなかなか難儀なことではあるのですが、さしあたり上澄みの部分を掬ってみると、まずは独特のテンポがあまりに心地よく奏でられていることは触れておかねばなりませんでしょう。これは『Air』や『Kanon』などの作品でもそうだったのですが、なにより基本的な、そして同時に大切なこととしてそこにある「文章を読む」ことに対する抵抗のようなものをまったく感じさせません。
 この手のゲームはやはりまだ「読む」ものであり、それは非常にプレーヤーにとっては能動的な行動になります。本来、「物語を楽しみたい」ということと「文章を読む」ということはまったく別のことで、前者は目的で後者はそれを実現する手段にほかなりません。だからこの手段は、達成されるべき目的と混同されてはならないものです。平たく云ってしまえば、文章を「読まされている」感じがしてしまったら、そのとたんにその物語は色あせてしまうということです。
 この作品はそういう次元をかなり高い場所で飛び越えてしまっています。とにかく読みやすい。すらすらと頭に入ってくるというか、すごく極端に云えば、マウスをかちかちと早押しして文章が一瞬目に飛び込んでくる、それだけでも意味が解ってしまうような心地よさがあります。これはもちろん単純に文章を構成する具体的な技術論の問題ばかりではなく、そこに描かれるキャラクターの巧みさですね。こういうものが非常に大きく影響しています。ものすごく各キャラクターの立ち位置がはっきりしていて魅力的なのです。このキャラクターはこういう行動をとるに違いない、こういう台詞を云うに違いないというもっとも基本的なキャラクター設定がものすごく解りやすく、なおかつはっきりと存在を主張しているのです。
 友達キャラクターとして登場する春原というキャラクターはそれが一番わかりやすく具現化されているキャラクターですね。春原は一部のシナリオでは非常に大きな役割を持ってそこにいるキャラクターではあるのですが、たいていのシナリオではいわゆる「引き立て役」に回ります。こういうキャラクターは、アダルト・非アダルトの垣根を越えてこういう学園ものを描く上では必ず必要になってくるキャラクターだと思うのですが、この作品では物語の引き立て役であると同時に、演出としての文章を引き立てる存在にもなっているのです。ここでギャグがあればいい、ここでその存在で笑わせて欲しい。そういったポイントを、春原というキャラクターは一手に引き受けています。ただ主人公やそのまわりのキャラクターが面白いことを云う、それだけでは持ちえない文章のテンポを持たせるのに、春原というキャラクターはその存在そのものが絶対になくてはならないキャラクターなのですね。ですから、今までの作品でいたサブキャラとしての友達キャラクターよりも、この春原というのはこの作品を楽しんだ人の中に残るキャラクターになるのではないかと思います。ゲームに付属していた「オフィシャルガイドブック」で、シナリオを担当している麻枝氏は春原のキャラクター解説で「春原がごく普通の友達キャラだったら、クラナドはまったく違う雰囲気のゲームになっていました」と書いています。これを「当然のことだ」と見るか、「なるほど」と感心しながら見るかというのはまあ個人差だと思うのですけれども、いずれにしても共通しているのは、この春原というキャラクターは、この存在そのものがそれだけ重要な位置を占めているということです。
 これはもちろん女性キャラクターについても云えることです。キャラクターの立ち位置……つまり、それぞれのキャラクターにそれぞれの意味をもたせてそこに有らしめるということは、我々のような素人でも難しいことであるのだろうということは容易に想像できます。この作品には非常に多くのキャラクターが登場するわけですが、そのそれぞれ一人一人が物語の中で意味を持ち、なおかつそれがゆえにそれぞれ進行とは別の……つまり、そのキャラクターのシナリオではないところにいる第三者としての存在としても非常に大きな魅力として光を放っているのです。シナリオを追いかけてその結果誰かを落とすということは、つまりはその世界を結果から逆算されるべきものとして肯定することであり、それはその先にあるキャラクター以外のキャラクターを否定することとイコールになります。渚シナリオなら渚が、風子シナリオなら風子がその先にいて、それ以外のキャラクターたちというのはその存在を抹消されるべき存在になってしまうわけです。よくこの手のゲームで、ある程度物語が進行するとそれまで仲良くしていた別のキャラクターたちが急に出てこなくなったりしてちょっとなんだかなあと思ったことがある人というのは少なくないと思うのですが、その原因は恐らく、それまで共通の部分にあったシナリオが枝葉の部分に来て分岐するという「アドベンチャーゲームの常識」にあったのではないかと思います。それを我々は当然のこととして受け入れてきましたし、それはそれでよいのでしょう。ですが、この作品はそういう方法をとりませんでした。否、無論、物語後半ではその対象となる女の子を中心として話は進められます。ですが、そこに行き着くまでのキャラクター達の関係があまりにも密接にくっついているため、結果の中にそのキャラクター達がきっちりと溶け込んでいる感覚がしっかりと残るのです。これはちょっと言葉では説明しづらいところではあるのですが、物語の後半でそのキャラクターが登場しなくなってもそのキャラクターがいたことをちゃんと思い出させてくれる感覚、とでも云うのでしょうか。これはメインキャラクターはもちろん、一部のサブキャラクターにおいても同じ事です。これがつまり、一個のキャラクターをより深く見せる……つまり、キャラクターの魅力に大きくつながっているのではないかと思うのです。
 で、ここで話をどーんと脱線させて、個別のシナリオについて見ていきます。なるべくネタバレはないようにしますが、絶対にそういう雰囲気すら感じるのも嫌だという方はこのあたりはすこーんと読み飛ばしてしまってください。
 まず渚。単独でこれだけクリアしてもなんだかよくわかったようなわからないような話ですが、これはまあ仕方がないでしょう。これに関してはある意味ネタバレに触れるところになってしまいますのであえて省略します。ただ、渚というキャラクター、そしてそれと同時に朋也というキャラクターが大きくなっていくその様子が解るということが、このシナリオの一つの意味になっているのではないかと思います。
 風子。個人的にもっとも物語としての完成度が高いのはこの風子のシナリオだった気がします。なんというかすごく素直で素敵なファンタジー。直球勝負です。ストーリーの途中で意図的に先を読ませて、そこであえて大きく捻らないという手法ですね。意図的にやったのか、結果としてそうなってしまったのかはわたしの知るところではありません。が、それはあくまで個人的な感想としてはプラスだったと思います。ああいう話で「捻る」ということは、物語としての面白さを持たせうる一方で、その結末や風子というキャラクターそのものを否定してしまうことにさえなりかねない危険性を孕みます。結果としてそうならなかったことで、話は盛り上がりに欠けてしまうのかもしれない。でも、それがゆえにわたしはこの風子の話が一番お気に入りです。
 智代は……これもすごく素直なファンタジーですね。ただ、こちらはもっと純然たる葛藤を描いている点で風子の話とは性質を若干異にしています。しかしこの話でもっとも面白いところは、何より智代というキャラクターの描かれ方なのではないでしょうか。この話、主人公と智代のラブストーリーとして見ると、実はものすごく不完全というかなんというか、実に物足りません。それはクリアした方なら、思い出していただければなんとなくわかることでしょう。ですが、それでもこの主人公と智代というのは、作中でもトップクラスのベタベタカップルのような印象が残ります。それは、途中に描かれる物語が、二人の直接的な恋愛を描いたものではないにも関わらず、それを感じさせるキャラクター性に拠るのだと思うのです。これこそが智代シナリオの最大の魅力であり見せ場なのではないかと個人的には思っています。
 ことみ。なんというかキャラクターとしてはKeyの十八番とも云える、いわゆる超天然系とでも云うか、なんかこうストレートに表現しようとすると公共の放送にはちょっと乗せられないというか言葉を選ばなくてはならないタイプのキャラクターなんですが、この子の物語も実は非常に直球勝負。素直な感動系の話として読むことができます。演出を含めて裏を読むというような物語ではなく、あくまでも物語としての一つの完成ですね。それがゆえに、そのキャラクター性と同時に非常に印象に残りやすい物語なのではないでしょうか。
 メインキャラの最後は杏と椋ですが……この二人の話に関しては実は少し不満がありまして。なんというか、すごくご都合主義。いやまあ、それはどのシナリオでもそうといえばそうなのですけれども、作中でそれを感じさせてしまうのはやはりちょっとまずいのではないかと云わざるを得ません。キャラクターとしては二人とも非常に魅力的なのです。なのですが……というよりもそれがゆえに、この二人を共通のシナリオで進めるという方法には非常に疑問が残ります。杏にも椋にもエンディングは用意されているのですが、オフィシャルガイドブックなんかを見ても解るように、あくまでもメインは杏であり、椋は一種「オマケ」的扱いになってしまっています。それまでのシナリオ進行で用意される一種の前提条件としてあるはずだった「姉妹」という均衡がここで崩れてしまっているわけです。それによって、本来厚いはずである杏の結末までもが蔑ろに感じられてしまうというのは、これは本当に勿体無いという以外の何者でもありません。
 他にもサブキャラ扱いのキャラクターたちにもその多くはエンディングが用意されているのですがそれはとりあえず置いておいて(いやまあ個人的に一番のお気に入りキャラクターはバリバリのサブキャラクターであるところの芽衣なんですけれども)、最後はいわゆる「隠れシナリオ」です。一応オフィシャルガイドブックにもその存在は書かれているのであえて伏せません。これはほんとうに秀逸な出来。この作品すべてがここへ集約していきます。すべてというのは物語はもちろん、それまでに存在していたキャラクターまで含めたところです。その結論を見たとき、この作品はまたそれぞれ個々のシナリオを超えたところにある魅力というものに気づかせてくれるのです。ああいう終わらせ方が「いい」のかどうか、わたしにはわかりません。案外、あの結末については結構賛否両論あったりするのかな、とも思います。
 ただ、この作品のテーマの一つはおそらく「世界」というもののひとつの考え方です。あまり深くまでシナリオについての持論を述べることは二重の意味で――つまり、あくまでもゲームレビューと銘打ったこの場ですべきではないということともともとあまりそういうことをしたくないという意味で――本意ではないので避けますが、そういう観点からすれば、あれは一つ、世界というものが構築されたその瞬間です。一つ一つの世界ができあがり、そしてそれが大きな世界となってそこに広がる。だから、それまでの流れを多少強引に断ち切ってでも、あのエピローグを語ることには非常に大きな意味があります。本来、その前で終わらせることもできたあの話を、あえてあのエピローグを入れたことで新しく作られた世界を演出しているのです。涙を流すような感動とはまた違う、物語が……そしてひとつ「世界」が構築されていく美しさ。そういったものがこのシナリオでははっきりと描かれていました。だからこそ、このCLANNADという話は、個々のシナリオの感動とかそういう枠を越えた名作として、ひいてはファンタジーとしての本質を持ちうるわけです。
 さて、いくつか前の段落で、突然キャラクター云々の話を打ち切ってこの個々のシナリオの話に入ったのには、もちろん理由があります。
 勘のいい方ならもうお気づきだと思いますが、この作品において「キャラクターを語る」ことは、すなわちそのシナリオやある意味でそれを超えたところで「世界を語る」ことになってくるのです。キャラクター同士が、そしてそのシナリオ同士が密接に結びつき、最後に隠しシナリオという形で語られる世界の構築の枝葉の部分を担当するという仕組みですね。この『CLANNAD』という作品がまず凄いのは、まずはここなのではないかなと思うのです。それはつまり、作品のテーマと作品としての演出が、結果的にまったく一致したところにあるということに他なりません。乱暴だったらすみませんと謝りつつさらに云ってしまうなら、どちらかといえばかなり多いボリュームを誇るシナリオ全部の中で日常描写がきっちりとされているのも、それが一つのテーマになっているからなのかもしれません。この作品の中に起きる「事件」は、あくまでもそこにある世界の中の「事件」であって、何ら世界から乖離した特別なものであってはならないからです。
 そういう意味からも、もしもシナリオの出来というものを単純に感動したかしないかだけで見るのであれば、この作品のシナリオというのは「そこそこ良かった」で終わってしまうと思います。それは一種、この手のゲームで感動すると云うことに慣れてしまった我々の感性でもあり、また、シナリオそのものが(結果として)そこに向いているかどうかという方向性でもあるのだと思いますが、それだけで判断するにはあまりにも惜しい作品でしょう。
 この作品はきっとファンタジーなのです。謎解きとか、シナリオの裏に隠された哲学とか、そういう難しいところはとりあえずおいておいて、そこにある世界を、そしてその世界が構築されていく美しさを楽しむことができるような作品です。多少偉そうな云い方を許してもらえるのならば、物語としては確かにちょっと展開がハシリすぎているなあというところもあってそれは気にならないではないのですが、そこを指摘してシナリオの穴をほじくるようなことはこの作品ではあえてあまりしたくないというか、それにあまり意味が感じられないというのが正直な印象です。
 この作品、おそらく今まで以上に好き嫌いの分かれる話になるのではないでしょうか。だから、今までのKeyブランドのファンがこの作品をKeyの作品として許容できるかどうか、わたしにはわかりません。さっくりと受け入れられてしまう気もしますし、逆に拒絶されてしまうような気もします。ですが、そういう視点を離れてみれば、この作品は間違いなく製作者の云いたいことが伝わってくる名作だと思うのです。

<CG>
 立ち絵と一枚絵は特に正面向きと真横が非常に不安な感じがします。まあそれでも全体としては綺麗で丁寧ですし、絵柄としては非常に親しみやすいのでさほど抵抗はありませんが。背景は特筆モノですね。緑の深い景色は特に美しく映えます。立ち絵のバリエーションも多いですし、一枚絵も豊富ですので(そのぶん全体的なボリュームも非常に多いんですが)このあたりはまあさほど不満はないでしょう。風子、芽衣あたりは実に魅力的。

<システム>
 バグなど目立ったところはありません。システムとしては特に目立ったところがあるわけではないのですが、アドベンチャーゲームとして非常に使いやすい完成されたシステムです。スキップも高速ですし、セーブポイントも百ヶ所と豊富。このあたりはさすが。
 フラグはボリュームがある分、キャラによっては結構きつめなので覚悟してください。特に美佐枝シナリオの難易度はこの手のアドベンチャーゲームとしては結構高いです。単純に狙っている女の子だけと会話すればいいというものでもないというのはシナリオでも書いた「つながり」を重視した結果だと思うのですが、それのせいでそれなりの難易度だったりします。

<音楽>
 音声はなし。最近のゲームになじんでしまうとこれはちょっと違和感あるかもしれませんがまあそれは一つの考えでしょうからこれはまあいいです。音楽ですが……これはもう流石ですね。いまさら云うことでもないんですが。歌モノはもちろんですが、劇中曲にも名曲が多いのは何をかいわんや。特に今回、曲調がさまざまでそれだけでも十分に楽しめます。個人的には「は〜りぃすたーふぃっしゅ」「資料室のお茶会」「夏時間」「カントリートレイン」あたりが好みかな。聞いているだけで楽しくなる、情景が思い浮かぶような音楽がそろっているのは今回も変わりません。

<総合>
 実は今回、まず考えたのは18禁表現についてのことでした。よくKey作品については18禁表現……もっと平たく云えばセックス描写は必要ないのではないかというような揶揄とも礼賛ともつかないことが云われていたわけで、今回はそれに対応するように(というべきかどうかよくわからないのですが)18禁要素のない全年齢作品としてこの作品は誕生してきました。これがどうだったのかはなかなか難しいところだとは思うのですけれども、やはりこの手の作品で……そしておそらく18禁であることを前提として作られたこの作品で、そういう要素を抜きにして物語を紡ぐのはやはり難しいのかな、という印象は強く残りました。こういうことを堂々と云うと、なんだか――個人的に好きな言葉ではないのであまり使いたくはないのですが――「痛い」奴というレッテルを貼られかねないのですが、わたしは必ずしもその手の18禁ゲームにアダルトシーンを求めてプレイしているのではありません。否、もちろんそういう用途で用意された作品に対してはわたしもそういう姿勢で臨みます。ですが、例えば同じスタッフの手による『Air』や『Kanon』をエッチ目的でやる人というのは、おそらくさほど多くはないでしょう。わたしもそういう人々の一人であるというそれだけの話です。
 ですから、この作品についても別にエッチなんかなくたっていい。そう思っていたのですが、ことはどうやらそんな単純なものでもないなあ、と。今回なんとなく解ったのは、アダルトシーンの持つ意味は、多少下卑た云い方をすれば「オカズ」としてのものと、物語の演出のものとの二つがあるのだなあというごくごく単純な事実でした。確かに男として、わたし自身『Air』や『Kanon』のアダルトシーンをいわば「実用に」使うことはできません。それは別に観鈴が可哀相だからとかそういうセンシティヴなものではなくて、単純に「物足りない」からです。ですが、あそこでアダルトシーンを入れることは、物語として大いなる意味を持っていたわけです。
 今作、全年齢ですからそれは使えません。すべて「キス」という表現でそのシーンは置き換えられています。過去にこの作品がアダルトゲームとして実際に我々の目の前に出たことがない以上、それが結果としていいことなのか悪いことなのかは我々には判断はできません。が、個人的な思いからすれば、やはりどうしても多少物足りないものは感じてしまいました。
 変な云いかたですが、この物語は「Keyの作品」ということで実に微妙な評価を受けることになるのかもしれません。それは売れた、売れないという興行的成功の結果を越えたものです。ブランドのファンか否かということを置いておいても、この作品は否定的な言葉が多数あるのもむべなるかなという作品だと思います(これはよくありがちな、「この作品で感動しない奴は云々」とか、「この作品のよさが理解できるのは俺だけ」などと云うような一種の選民思想のようなものとはまったく別のものです)。ただ、否定的な視点でこの作品を見るにせよ、まず「どうせKeyだから」という視点まずありきでこの作品を見てしまうというのは、なんだかものすごく勿体無いような気がしてならないのです。

2004/5/4

戻る