朱 -Aka-(ねこねこソフト)

項目シナリオシステム音楽総合
ポイント3+3+4+7−
シナリオ:片岡とも/東トナタ
原画:秋乃武彦
音声:有
主題歌:有(『朱』『砂銀』等全6曲)

-禁断の進化を果たした作品-

<シナリオ>
 この作品、第一章から第四章まで、それぞれのシナリオが関連しあいながら別の話が語られ、纏められるという手法を取っています。とはいえ、オムニバスというほどシナリオが独立しているわけではなく、むしろほぼ同じ時間帯を共有した別キャラクター視点という印象のほうが強い感じです。
 ここではあえて概ねの物語内容そのものについては細かくは触れません。「ルタ」という名前をキータームとして、自らの不思議な力に対して思い思いの感情を抱きながら目的の地を目指す、というような感じでしょうか。第一章から第三章までを下敷きとして、この「ルタ」そのものが語られる第四章が主軸となります。
 この話自体は非常に巧く出来ています。
 第三章までで微妙にほぐれてきた謎が、第四章で一気に解けていく様子や、人と人との感情を微妙なところで書ききるテキストの力は流石としか云いようがありません。
 シーンの使い方も巧いので、クライマックスのシーンなどはプレイヤーとしてものすごく感情を揺さぶられると思います。全体として非常にボリュームのある作品なので、それはもはや大作映画のラストシーンを見ているかのような印象さえ受けます。
 これの大きな要因の一つとして、キャラクターの描き方が非常に巧い、というのがありますでしょう。基本的なフォーマットを男性一人・女性一人のキャラクター製作パターンに置き、その上で徹底的に「女性を護るもの」として描かれる主人公男性キャラクターたちの強さと、逆らえない運命と言うものに対しての無常観のようなものの対比がとにかく巧くて、結果的にキャラクターではなく世界に感情移入することができるようになっています。
 そのスタンスもまさに映画のもので、演出方法やシナリオの展開を鑑みても、いわゆる映画というものをベースに作られているのは間違いないと思います。そういう意味ではあんまりゲーム的ではないのですが、これだけボリュームのあるシナリオだとそれが逆に有効なものになっています。
 ただ、それこそがこの作品のシナリオ的に大きくマイナスになってしまっている、という印象も同時に受けてしまいました。
 第四章のクライマックス近辺は、確かにものすごく魅力的なのです。これは間違いありません。ただ、そこに行くまでの展開が、あまりに冗長すぎるというか、もっと平たく云えば、「飽きてしまう」のです。
 これはなにも、話に魅力が無いのではありません。また、テキストのテンポが悪いとかそういうわけでもまたありません。
 ただ、そのテキストがあまりにも文字におけるビジュアル表現に頼りすぎていること、そして終始第三視点で物語が語られていることの二点に起因するものだとわたしは思っています。
 まず「文字におけるビジュアル表現」というのは、(厳密には違うのですが)おおむね「凝った表現」と同等の意味です。
 おそらくシナリオライターとしては頭の中に完璧に状況が再現されており、また、それを確実に文章に落とし込むことには成功しているのだと思います。なのですが、それを「映画的手法」で見せようとしているがために、表現があまりにも難解なものになってしまっているのです。
 難解、というのはなにもその言葉の意味が取れない、という意味ではありません。一つ一つの文章を「頭で考えて理解しなくてはならない」という意味です。文章全体の云っていることを「理解する」のではなくて、その文章そのものが持つ意味を「理解する」ことですね。
 この作品、こういう「頭で考えて理解しなくてはならない」文章の量がとてつもなく多いのです。
 無論、こういう表現を文章の中に混ぜることは、意図的に脳のピントをずらす意味では有効でしょうし、この表現一つ一つは非常に美しいものであることは間違いありません。
 ですが、すべてがこれだとやはり疲れますし、なにより読まされている感じがどうしても強くなってきて、読むことそのものに飽きてしまいます。
 そして後者の「第三視点」。これも前者と関係しないではないのですが、気になったのはシナリオの中から語られる言葉がすべて「シナリオライターからの説明」で終わってしまっているという点でした。
 基本的な展開が、「俺はこうした。俺はこう思った。彼女はこう云った」だけで構成されてしまっていて、そこに語り手視点の揺れがありません。つまり、綺麗な情景、キャラクター達の心の動向などは確かに描かれているのですが、それが「シナリオ(ライター)からの説明」になってしまっていて、なんというか「演説を聞かされている」ような感覚を抱いてしまうのです。
 これもある意味当然の話で、いわゆる「ゲーム」というのは画面の中で語られる文章の方向はまっすぐにプレイヤーに向いているものですが、映画はそうではありません。映画の中で語られるシナリオは、劇場で見ている人すべてに語らなければなりませんから、当然「みんなに語りかける言葉」で語られなければなりません。
 巧い映画のシナリオは、それでも劇場にいる人一人一人に語りかける「第二視点」を「第三視点」の中に混ぜることで刺激を作り出していますし、それほどでなくても映画というのは「文章を読ませる」表現ではないのでそれでもおさまりはつきます。
 なのですが「文字を読ませる映画」とも云えるこの作品の場合は、その固定された第三視点の文章が結果として退屈を生んでしまっているのです。
 この「視点」の話についてはここに書くと長くなってしまうので、よく名前を出している『あなたの魅力を演出するちょっとしたヒント』(鴻上尚史・講談社)をご参照ください。
 つまり、「表現に凝る」という意味合い、ないしは「映画のような物語」を演出するという二点を目指したということから考えれば、この作品は同様のポイントから製作されたであろう前々作『銀色』および前作『みずいろ』からは大きく進化しています。それは間違いないでしょう。
 それが映画のような、こちら(プレーヤー)からの物語への干渉を許さない物語展開を作り上げるにあたっては大成功していると云えますし、これによって先のような魅力が生まれていることもまた間違いありません。
 なのですが、それがあまりに行き過ぎてしまい、結果として物語前半から中盤にかけての冗長さを生んでしまったことも、残念ですが事実だと思います。単純に云えば、「退屈な文章になってしまっている」ということですね。
 物語を終える前に途中でやめてしまう人が多いのでは、どんな感動的で美しい結末も意味はもちません。第四章の後半が魅力的なのは、ストーリーが佳境に入ったからというのもあるのですが、それと同じくらいこの「視点のズラシ」がふと発生しているからでもあると思います。
 ただ、この表現によって「視点をズラすことができるかどうか」は、これの前作とも云える「あの作品」をプレイしているかどうかによっても変わってくるのですが。
 さらに細かいことを云えば、『銀色』第四章のような、物語中にフォーカスを持つキャラクターを短いスパンで入れ替える……つまり、視点(上に出した、シナリオにおける「視点」とは別物です)を持つ主人公を短いスパンで入れ替えるという表現が今作第四章でも使われているのですが、これはやはりいまひとつ。時間軸を変えて四人のキャラクターの心境を並べて描く表現なんでしょうが、これはどうも成功しているとは云いがたいです。
 問題なのはおそらく、これを「エッチシーンでやってしまった」ということなのでしょう。普通のシーンでこそ生きる表現なのだと思うのですが。
 この作品のシナリオは、『銀色』第一章及び「錆」のような圧倒的かつ幻想的な美しさを狙ったもので、『みずいろ』のような親しみやすさはあえて意識せずに作られているのかもしれません。
 なのですが、あの『銀色』が持つ表現の美しさは、「表現の美しさ」を狙ったものではないからこそ生まれてきたんじゃないか、あくまでもそこにある幻想的な景色をシナリオライターが描きだしたことから生まれた美しさであって、「美しい表現をしよう」と思ったら、それはきっと無理のあるものになってしまうんじゃないか、と個人的には思うのです。

<CG>
 アダルトゲームの絵としては非常にいいです。
 キャラクターがみんな可愛いというのもあるのですが、それと同じくらい丁寧に描きこまれた背景もまた魅力的ですね。一枚絵・立ち絵ともに安定していて文句の付け所はありません。
 舞台が現代日本ではないということもあって衣装の自由度が非常に高く、うまくキャラクターごとにデザインされた衣装もまた見所かもしれません。
 枚数も多く非常に豪華に使われていますが、肝心のエッチシーンは全体としてそんなに多くはありません。

<システム>
 悪くは無いです。画面効果も非常に効果的で綺麗ですし、スキップ速度やセーブ個数、バックログなど一通りのことはできます。
 インストール関係で少しバグが出ていたようですが、買った時点で修正ディスクが入っていたので(まあこれもどうかと思わないではないのですが)そんなに気にはなりませんでした。
 ただ、この映画を意識した画面はシンプルなのはいいけど、少しばかりテキストが見づらいような気がしないでもありません。

<音楽>
 とにかく歌モノが多いこと。これが実に惜しげもなくバンバン使われています。ゲーム中の曲も、舞台背景をうまく生かした感じの、なんというかオリエンタルムードが漂う曲が多く、これもまた巧いですね。
 声に関しても、チュチュが若干前作のイメージを強く引きずってしまっている感じがする気はするのですが基本的にはみな魅力的です。
 ただ、やっぱり「映画」を目指すのであれば、男性キャラクターにもきっちり声をつけたほうがいいと思うのですが。

<総合>
 なんというか、ちょっと嫌なこと云えば、この作品を例えば「考えてゲームをする人向けなので」と云ってしまうのはちょっと違うんじゃないのかなあと思うんですよ。
 もちろんそういう作品はあるだろうし、あって然るべきだとは思うのですが、それは例えば「名作文学は難しいものだから」と云い切ってしまうのと同じことだと思うのです。
 芸術とは理解が難しいものであり、簡単に理解できるようなものは芸術ではないと云ってしまうのは傲慢に過ぎません。どんな芸術だって、そこの根底にある概念は、誰にでも理解することができるものであるはずなのです。
 この作品も、結果として最後のクライマックスが非常にうまくできていて、物語自体も全体としてはしっかりと作りこまれているので、終わった後にプレイヤーを取り残してどこかへいってしまうような作品にはなっていません。
 なのですが、それを構成するパーツが意識的にか無意識にかはともかくとしても「飽きさせてしまう」ようなものであるのは、物語が魅力的であるがゆえにいっそう残念です。
 と、ここでやはり「あの作品」との関連についても触れる必要がありますでしょうか。この作品、既にクリアした方ならご存知の通り、「あの作品」の続編的立場にあります。
 なので、「あの作品」をプレイしたかどうかというので、この作品の評価というのは大きく変わってくることになると思います。物語の主軸にいる「あのキャラ」が、「あの作品」においてどういう立場であったのかというのが明確だから、それはまあ当然と云えば当然のことでしょう。
 逆にその下地がなければ、「あのキャラ」は物語の途中に突然登場してきたキャラクターに過ぎないわけですから。
 ただ、結局、「あの作品」とこの作品はどう関係すべきだったのかということについては疑問が残ります。この作品の後半は、「あの作品」で主たる役割を果たした「あるモノ」がメインに語られていますが、「あの作品」はあくまでもその「あるモノ」がそこにあることで狂わされていった人々を描いていたという点で大きく異なっています。もし、そういう意味から「あるモノ」に関わるエピソードを書きたかった……つまり、「あの作品」を補完するような立場のものにしたかったのであれば、この作品における第ニ章や第三章などはボリューム底上げにすぎない、ほとんど意味をなさないものになってしまいます。
 と云うよりも、あそこで「あのキャラ」が出てきた時点で、それが確定的になってきているのかもしれません。
 それならば、もし「あの作品」が作られた時点でこの作品が企画されていたのだとすれば話は別ですが、この作品が果たして『朱』という新作である必要性があったのかどうか、あのエピソードはあくまでもそれを補完するオマケにするべきではなかったのか、という疑問です。
 無論、それは人によりけりなのかもしれません。それを一つのエピソードとしてのみ考えるのだとすれば、「あの作品」の下地はそれほど大きな意味を持ちえませんから。これをわたしだけでどうこう云い切るのはもちろん不可能です。
 ただ、一つだけ確実なのは、この作品は非常に大きな意味を持つ作品であるということは間違いないという、それだけのことなのかもしれません。

2003/7/30

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