「久遠の絆」


 輪廻転生をテーマにした、ビジュアルと文章だけでストーリーを読ませていくタイプのゲーム「シネマティックノベル」。もしも簡潔にこの作品を述べよと言われれば、究極的にはこういうことになるだろう。
 この手の、つまり後ろに絵を表示して、その上に文章を重ね、かつてよくあったゲームブックのように物語を進行させていくタイプのゲームというのは、いま、この業界ではわりとメジャーな手法として定着しつつあり、一種ブームとも呼べる状況であると言ってさしつかえなかろう。かつてはチュンソフトが「弟切草」や「かまいたちの夜」で、パソコンゲームメーカーであるLeafが「痕」や「To Heart」で、それぞれ成功を収めている実績もある。無論、「ビジュアルノベル」「サウンドノベル」と、その言い方はさまざまであるのだが。
 口さがない言い方をしてしまえば、この「久遠の絆」もそのなかの一種である、と言ってしまえなくもない。事実、この作品も、そのように絵と文章を重ねあわせて物語を進行させるタイプのゲームであるからだ。しかしそれは、軽トラックもフェラーリも、みんな「車」だからどれも同じようなもんだ、と言うのと同じ危険性を孕む。

 どちらかというと、Leafの「痕」や「雫」といった作品の方が、チュンソフトの「弟切草」などよりもこの作風に近いといってしまうのは差し支えなかろう。チュンソフトの作品が、このような画像と画面いっぱいに表示される文章のみで薦める物語の表現技法の目的が、推理小説のような臨場感であるとするなら、Leafの作品というのは、それもさることながら、そこにさらに厚い「物語性」を重ねあわせようとしている意図が見え隠れしているからだ。無論、「弟切草」や「かまいたち」に物語性がない、といっているのではない。どこのポイントを強調するかという違いにおいてである。実際、もしここから物語の要素を抜いてしまったら、このジャンルはその瞬間に崩壊する。他にもさまざまなメーカーがこの表現技法を使おうとしているが、どうも今一つ作品としてぱっとしないのは、この表現技法の使い方を誤っているからだと私は思っている。
 この「痕」や「雫」、とりわけ前者「痕」は、パソコンゲーム史上の中でも希代の傑作であるというのは多くの人の認めるところであると思うが、これに学び、そして結果としてこれを超えてしまっている作品。それがこの「久遠の絆」なのではないだろうか。
 文章が上手い、というのはあるだろう。表現一つ一つをとってもキャラクタは生き生きと描かれているし、そこに登場する人物全てに必然性を持たせたことの意義は大きい。これはひとえに、シナリオを書く段階での文章表現の巧みさに依存せざるをえない。
 しかしそれと同等かそれ以上に特筆すべきなのは、上記文章表現と一部被るところがあるが、そこにある「演出」という面においての巧みさというか、そのきめの細かさであろう。

 この作品は、なによりプレイステーションで出したソフトであるということにひとつの大きな意義があると思う。プレイステーションというのは、今ではわりと有名な話になってしまっていると思うのだが、とにかくいろいろな表現に対して規制の厳しいハードである。絶対的な巨大マーケットを持つ代わりに、そこにある規制はとにかく細かくて厳しいものなのだ。
 この作品では、表現上どうしても、その規制を超えるか、規制ぎりぎりの線を通過せねばならないポイントがいくつも出てくる。これがパソコンの18禁ゲームなどであれば、そのままなんの細工もせずにそのポイントを通過できるわけだが、プレイステーションの畑でこれをやろうとすると、そこに「規制」の網がかかることとなる。
 だからこそ通常?のプレイステーションの畑のゲームというのはこのような表現を避けることでこの規制を回避してきたわけだが、この作品ではその規制ぎりぎりのところをあえて通過し、結果としてパソコンの18禁ゲームと同じような深みを醸し出してしまっているのだ。
 これは本当に凄いことであると思う。厳しい規制の中で生まれる芸術には美しいものが多いものだが、この作品は「ゲーム」というジャンルにおいて見事にそれを成し遂げてしまった作品なのではないかと思う。この作品がパソコンで発売されていたらどうなるかというのは非常に興味のある所だが、このくらいのクオリティになってくると、もうそこに違いは生じ得ないのではないだろうか。あるいは、その規制の箍が外されてしまうことでそれがマイナスに作用することすら生じ得る。もちろん、この規制によって、どうしても出せなかったエピソードなどがあって、それがストーリーをさらに深くするものであったりした場合はまったく別の話になってくるが、そうではなくて今のストーリーを見つめれば見つめるほど、これはもはやプレイステーションという畑の中でだからこそ生まれた作品なのではないだろうか。
 この技術〜「感性」といってもいいかもしれない〜は、作品のさまざまなところで生かされ、結果として作品を深いものに深いものに仕上げている。私自身はゲームで感動して泣く、というのは最近とくに少ないことではないのだが、この作品においての「感動」というのは、ほかの作品の「感動」とはまたちょっと違っていたような気がする。
 たとえばほかの作品の「感動」の質が、単純にいい話だなぁ、という感動であったとしよう。もちろん、そういう感動を涙を流させるまでに昇華させることは非常に困難なことで、そこにもレベルの高い話の筋と深みが必要になるわけだが、この「久遠の絆」という作品はそこからさらにもうひとつ、なにか違った意味合いでの「感動」をもたらしてくれるのだ。
 もちろん、いい話だなぁ、というような感動も当作品は含む。実際にそういう意味合いで流した涙もあっただろう。しかしそこにもうひとつ、今までの作品の感動の質とは違った意味での「感動」をこの作品は与えてくれていたのだ。
 それがどういった意味合いのものなのかわたしにはわからないし、たぶん誰にも解らないだろう。それは決して言葉で説明できるような物ではないからだ。心の琴線に触れる、という表現があるが、まさにそれである。ちっとも説教臭くないのに、なにか自分に出来るせいいっぱいのことを頑張ろう、という気持ちにさせてくれるのである。それはたぶん、それぞれの人がそれぞれに感じることが出来るような、心の奥の「なにか」に依存するものなのであろう。

 しかしまぁ、この作品にもちょっとした欠点はあって、細かいことをいえばいろいろあるのだろうが、なにより最も大きいのは「長すぎる」ことであろう。普通にやっていくと20時間は優にオーバーするらしい。
 もちろんボリュームのあることが悪いことだとは思わないし、こういう作品だからそのくらいが普通という向きもあることはある。だがしかし、最初と最後はともかく、中盤あたりで少し中だるみしてしまうのだ。ちょうど連載が続きすぎた漫画が、だらだらと怠惰な戦闘シーンを繰り返すが如く、多少冗長とも言える選択肢が続いたりするふしがある。もちろんこれもストーリーをより深くに持っていく為の技術なのだが、それは終わってみてからはじめて気が付くことで、やっているうちはひたすらメモリーカードにセーブロードを繰り返して正解の選択肢まで待ち続けるという機械的作業になってしまうのだ。このあたりはもう少し圧縮してしまってもよかったのではないだろうか。

 しかし欠点といえばそれくらいのもので、それですら「個人的にそう思う」というレベルの話であって、絶対的に誰でもそうだ、といえるようなものでもないし、仮にそうだとしても、この物語の深さというのは、その欠点を補って有り余る魅力を持っている。
 まだやっていないよ、って人は是非この作品を味わっていただきたい。最後に自分の価値観が崩れ、再び新しいものとなって再生していくのがわかるだろう。それこそがもしかしたら、「久遠の絆」であるのかもしれない。

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