巫女と「少女」 -巫女論- (1)

2003.2.12
 まず最初に、少し大きめの神社などでは必ず見かける「巫女」さんは、実は「神職」ではない。無論、神社において何らかの役割を担っている以上はどんな仕事であれ「神職」なのだが、厳密な意味では巫女というのはあくまでも宮司(「神主」というのは正式な呼び名ではない)の補佐をする立場ということになっているのだ。つまるところ、宮司の仕事のサポーターに過ぎないのである。
 しかし、だからと云って彼女たちの仕事がどうでもいいものであったかと云えばこれはそうではない。この話をする前に、巫女と深く関わっている「神道」というものについて大雑把にではあるが触れておきたいと思う。
 今、神道と云えばほとんどの人が思い出すのが、いわゆる神社を中心とした「カミ」を祀る行動そのもの―あえて「宗教」とは云わないでおく―だと思うのだが、かつての神道の形は決してそうではなかったのだ。歴史上、古きから新しくに至るまでさまざまな場面で神道という存在が政治と深く結びついていたことは広く知られている。かの大戦中、わが国は「神国」であると国民を鼓舞し、それに関わった人々を「カミ」として祀ったのはつい最近のことであった。
 そんな「神道」と政治の融合が、最初に形となって現れたのが「古事記」である。
 「古事記」は、現在は「コジキ」ないしは「フルコトブミ」の名称からも解るように、体裁としては日本国家の古きを書き出した歴史書ということになっている。が、これはあくまでも体裁であり、実際は当時の権力者であった天皇の血統を正当化するためのものであるという色が非常に強い。高天原の神々が大国主神から地上を譲ってもらい(天孫降臨)、その血を引くのが初代天皇である神武天皇であるという流れであり、「天皇家は高天原の神々の血を引く血族であるから、日本国を支配する理由がある」という結論を生み出すための政治的な意図が組み込まれている点はやはり否めない。
 神道における固有の神々は、そもそもこうして生まれてきたのだ。天照大神を祀る伊勢の神宮も、大国主神を祀る出雲大社も、こうして神々に名前がつけられてはじめて意味を持つのである。日本における「カミ」の信仰は、高天原にいる神々への信仰から生まれたものではありえないのだ。
 かつて、農耕という生産手段を獲得した人類は、そこに強大な自然の力を感じざるをえなかった。採取・狩猟による生活は、自らも自然そのものであるが、一方で農耕文化は自然を自分自身から切り離し、客観視せざるを得ない存在に仕立て上げる。日照りが続いても雨が降りすぎても稲は収穫できないのだ。
 そこから生まれたのが原始型のシャーマニズムである。明くる年に作物が収穫できるかどうかを知り、そして司るのは自然であるという考え方から、その吉凶を占ったり、天候を変えるために祈りを捧ぐ存在が必要になっていったのだ。邪馬台国における卑弥呼などはまさにその典型である。卑弥呼はまさに自然と人間とを繋ぐシャーマンであったのだ。
 そしてそれは長きに渡って民間信仰を支えていた。これが自然と特定の名前を持つ「神様」の信仰と混ざり合い、さらに後の神仏習合などでさらにその系譜はややこしいものになってしまうのだがこのあたりはここでは割愛する。とりあえずここで大切なのは、基本的に民間信仰における「カミ」というのは神話に登場する具体的な名前のある「神様」ではなく、自然や生活のまわりに存在するものそのものであったということだ。今は神社と云えば神殿のある建物であるが、かつてはそこには山や木、海、岩などといった自然そのものがあった。奈良県の大神神社などは、そこに鎮座する三輪山が信仰の対象となるため拝殿がない。ここなどはまさにその面影を強く残していると云える。
 いわゆる原始型神道とでも云うべきもの……つまり「自然」を中心とした崇拝が生まれたのは、自然が我々の生活と直接関わってくるからに他ならない。山や海は大切な食料を提供してくれるし、天は雨を降らせ、日を照らすことで実りを豊かにする。生命の息吹はすべて自然とともにあることを昔の人は感じていたのだろう。それがゆえに、人々はまたそこに強大で絶対的な力の存在を感じ取っていたのだ。そんな「天=上(カミ)」に感謝し、そして次へつなげるために人々は「祭り」を執り行ってきたのである。
 そしてそういった、天と地とを繋ぐのは、ほぼ例外なく女性の役割であった。卑弥呼の例を出すまでもなく、いわゆる神社神道へ繋がる流れの中においても神楽舞を奉じるのは女性である。そしてさらに云うのであれば、強大な力を持った「天」と「ヒト」を結びつける女性は、そこにおいてはもはや絶対的な存在であることと等しい。天が怒ればヒトは生きていけないのだ。
 これはあくまでも推測になるが、おそらく太古から人々は、女性の「子どもを産む」という力を畏怖していたのだろう。自らの中にもう一つの生命を宿すということは、すなわち女性は自らの中で新たな生命を作り出していることになる。それはやはり非常にミステリアスなことなのだ。そのミステリアスな部分が、「カミ」の絶対的な力と結びついたと考えるのはさして無理のないことであると思う。
 ここでようやく巫女の話に戻ってくるが、つまり神道においては、基本的には「巫女」という存在がほぼすべてであったと云えるのだ。これは原始型の神道において特に顕著ではあるが、現在の神社神道においても基本的な流れは変わらない。ただ、「カミ」に人格を与えることで、宮司がその社を守る立場に立たされたというだけの話に過ぎないのである。「古事記」の中に、女性神である伊邪那美が男性神・伊耶那岐に先に子作りの声をかけたことで、未熟児である水蛭子や淡島という子どものうちに数えない子どもが生まれてしまったが、先に伊耶那岐から声をかけたことできちんとした子どもが生まれたという表記があることから、当時から女性が男性よりも後ろに控えるべき存在であると思われていたことはほぼ間違いない。それでもやはり天と地を結ぶのは女性の役割であったのだ。神社の中心となる伊勢の神宮も、かつてはずっと皇族の中から選ばれた斎宮と呼ばれる未婚の女性によって祀られていたのである。「巫女」とはすなわち「神子」であり、「カミ」と接するのは、ずっと女性に任された役割だったのだ。
 そして、そこからさらにもう一段階話を進めると、直接にカミと接することができる「巫女」という存在は、我々のような神道素養のない我々はもちろんのこと、いわゆる神職である宮司でさえも持ち得ない力を持った存在であると云うことが出来る。巫女の神秘性というのは、つまりは男性に見せていない「秘められた身体」を持った少女であることもまた重要視されていたのではなかろうか。物理的な力の強さもあって、圧倒的に男性の力が強かった社会においては、男性はもはや神秘ではありえないからだ。逆説的な理論になってしまうかもしれないが、男性の力が強かったからこそ、神とのコミュニケーションを行う存在は女性にのみ許されていたとも云えるのである。
 我々が神社に感じる魅力というのは、その独特の神秘性である。神域というのは「秘められた場所」であり、そこに我々が立ち入ることはできない。そしてそれと同様の魅力を、無意識のうちにでも「秘められた身体」を持つ巫女に感じているのだ。云うなれば巫女は「少女」であり、それはまた聖なる存在そのものの象徴なのである。



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