ファミリーコンピュータ
(任天堂)
ファミリーコンピュータ、ファミコンは、おそらくわたしの世代の人たちのほとんどがそうだと思いますが、わたしにとってもコンピュータの面白さをイヤというほど教えてくれたハードウエアであることは間違いありません。後に続くパソコンに何の抵抗もなく入っていけたのは、間違いなくこのファミコンのおかげだと思います。
このファミコンが任天堂から発売されたのは、わたしが小学校二年の時だったと思います。当時まだ小さかった上、東京の片隅の田舎に住んでいたわたしは、そんなものの存在すら知りませんでしたし、そもそも※1テレビゲームの存在自体知らなかったように思います。ゲームセンターはもちろんありましたが、当時のゲームセンターは今のような「アミューズメントなんとか」などと呼べるようなモノではなく、まさに「不良少年の溜まり場」に相応しい、薄暗くてどこか排他的な雰囲気の漂う場所でしたから、そんなところへ行こうなどとはこれっぽっちも思いませんでした。実際、わたしの世代で、「ゲームセンターに行くようなやつは不良」などと教えられた人と言うのは少なくないと思います。
そんな折、わたしの家の隣へ引っ越してきた人がいました。この人の家には、わたしよりちょっと年下の男の子がいまして、私たちの頃の田舎の子どもというのは近所の子どもというのは男女関係なくみんなで遊ぶのが普通だったので、例に漏れずその子の家に遊びに行ったのです。で、そこにあったわけですな、発売されて間もなかったファミコンが。その時は「ファミコン」の名前も知りませんでしたが、そこで初めてファミコンの「マリオブラザーズ」をやり、今までに遊んでいたドッヂボールや缶蹴りとも違うその楽しさに異常に興奮したのをなんとなく覚えています。
と言っても、それだからすぐにファミコンを買ってもらったとかそういうことはありません。うちの両親はファミコンの類のテレビゲーム機が大嫌いで、ファミコン買ってなんて言っても馬耳東風なのは明らかでしたし、実際にそうでした。友達のうち何人かは既に買ってもらっているやつもいましたから、友達の家に遊びに行ってファミコンをやるというのが当時のわたしにとっての「ファミコン」のすべてだったのです。
それからしばらくたち、わたしが小学校三年の頃。今に続く、ファミコン史上の大ベストセラーが発売されます。
「スーパーマリオブラザーズ」と名づけられ、任天堂から発売されたそのソフトは、ファミコンを所有している友達のほぼ全員が持っていました。なので、友達の家に遊びに行き、ファミコンをやろうということになると、だいたいソフトはこの「スーパーマリオ」だったのです。
といっても、実はこれをはじめてやったときのことは、あんまり覚えていません。ただ、その後、イヤというほどハマったのだけははっきり覚えています、と言っても先にも何度も述べているように、自宅にはファミコンはありませんでしたから、友達の家に行っては「スーパーマリオ」をやるわけです。クリアをするとかしないとかそういうことじゃなくて、ただマリオを操ってキノコを取ったり敵を倒したりするということそのものが楽しくてしょうがなかったのです。後にも先にもゲームをこんな風に楽しんだというのはありませんし、これからもそんなことはないでしょう。ゲームというものにまだ頭が慣れていなかったこと、限られた時間しかできなかったことなんかがおそらく「スーパーマリオ」をわたしの中でそこまで面白いものにしていたのではないかと思います。
そしてそれと同時に、「スーパーマリオ」はわたしをよりファミコンの世界へディープに引き釣りこむきっかけにもなりました。「スーパーマリオ」に慣れてくると、当然ファミコンソフト全体へとその興味の対象は移ることになるわけです。といっても基本的に運動神経のなかったわたしにはシューティングゲームは難しく、「スーパーマリオ」や「スパルタンX(アイレム)」、「グーニーズ(コナミ)」、「迷宮組曲(ハドソン)」、「チャレンジャー(ハドソン)」のようなアクションゲームが中心でした。
、そしてそれ以外に、そこに付随して想像力を使って遊ぶことを教えてくれたソフトがあります。ファミコンをわたしの中で一つ目の転機だとすれば、間違いなく二つ目の転機になっていると思われるソフト―それが、エニックスから発売された「ドラゴンクエストIII」でした。
これが発売されたのは、確かわたしが小学校五年の頃だったと思います。それまでわたしのテレビゲーム感といえば、「スーパーマリオ」のようなアクションゲームで、いわゆるRPGなどというものはまったく興味もありませんでした。というよりも、そういうものの存在は知っていても、どういうものか見ようともしなかったのです。当然のことですが、それまで「ドラクエ」のシリーズ……「I」や「II」など、名前くらいしか知りませんでした。わたしの家にファミコンが来たのは小学校五年後半頃で、それまでわたしはファミコンといえば友達の家でやるものでしたから、そうなれば必然的にすぐにやってすぐに終わるもの……アクションやシューティング中心で、RPGなどというものに触れる機会がなかったのも、まあ無理からぬことだと言えるでしょう。RPGとかSLGは基本的には一人で、自分のソフトでやるものですから。
ある日、いつも遊びに行っていた友達の家に遊びに行くと、そこにあったのです、発売されたばかりの「ドラクエIII」が。まだその友達はようやく船を取ったところくらいまでしか進んでいませんでしたが、たまたま友達がそれをやっているのを見たとき、なんて凄いソフトなんだと思ったものでした。綺麗な画面と見ているだけでわくわくする戦闘シーン。名曲揃いの音楽。広い世界を感じさせる、豊かな表情の街の人々。すべてがあまりに、びっくりするくらい新鮮でした。これはドラクエIIIというソフトで、出たばかりでなかなか買えないソフトなのだ、ということを教えてもらったのもそのときだったのです。
そして、わたしもこれがやりたい!と思ったのはある意味では当然の話でした。
しかし、やっぱりRPGですから、友達の家で「ドラクエ」をやるのは不可能です。まして※2記憶領域は三つしかなく、不慮の事故による記憶喪失防止のためにバックアップは三つ取っておくのは常識でしたから、もはや自分でファミコン本体とソフトを入手する以外、わたしが「ドラクエ」ワールドに足を踏み入れるのは不可能だと悟ったわけです。
そんな折、先にも出てきた隣に住んでいたTさんがファミコン本体を買い換えました。※3老朽化してはいるもののまだ使えるので、今まで使っていた本体をあげるけどどうか、と言う話をしてくれたのです。両親の渋る顔をよそに二つ返事で返事をし、誕生日プレゼントと称してファミコンソフトを何本か買ってもらいました。それが確か、「スーパーマリオ」「リップルアイランド(サンソフト)」「桃太郎伝説(ハドソン)」そして「ドラクエIII」だったのです。ドラクエIIIは品薄状態が続いており、すぐには買えなかった記憶もありますが。
それはともかく、無事にボロボロの本体と「ドラクエ」を手に入れたわたしは、両親の※4一日一時間という制限も無視して「ドラクエ」に没頭していました。そこからわたしの、長きに渡る「ドラクエ」生活が始まるわけです。どうでもいいけどほかに買ったソフトが微妙にマニアックですね。リップルアイランドなんか今中古屋で一万円くらいで売られてて笑ってしまいます。
さて。ここで話はちょっと時間が戻ります。
はじめてわたしが「ドラクエIII」を見たとき……つまり、友達の家に遊びに行ったとき、「ドラクエ」のゲームそのものの面白さのほかに、もうひとつわたしの目を引いた「もの」がありました。
それはなにか。「ドラクエ」シリーズをやった方ならわかると思いますが、「※5マリンスライム」という一匹の敵キャラクターでした。
この敵キャラを見たとき、コイツは可愛いなあ、と思ったのです。今までそういうキャラクターものに「可愛い」などという感情を持ったことはなかったのですが、そのマリンスライムを見たとき、初めてそんなことを思いました。まあ、普通ならそこで終わるのですが、そこでわたしは、そのマリンスライムを主人公にした4コマ漫画を描きはじめるようになるのですね。漫画と言ってもノートを破いて二つに折ってそこに漫画を描き、それをホチキスで留めただけのものでしたが、こんなことをしているやつは教室ではわたし一人だったので(まあある意味で当然ですが)、その漫画はそれなりに教室内で人気が出ました。小学校へは漫画の持込は禁止で、そんな中で図書室にある「※6はだしのゲン」以外で学校で堂々と読める漫画だったからというのもあっただろうし、当時人気爆発中だった「ドラクエ」をモチーフにしたものであったからということもあっただろうし、決してわたしの技術云々ではないと思いますが(実際今見るとものすごくヘタクソだし、ワク線は定規も使ってないようなシロモノだし)。しかしそれが、今のわたしがKanonとかで同人誌を出す、いわゆる二次創作のルーツになっていることは言うまでもないでしょう。あるゲームに感動して、それをモチーフにした作品を自分で作るということの面白さを知ったのは、わたしにとってはまさに「ドラクエIII」がきっかけだったのです。
ファミコンは発売当時から、いろいろな周辺機器を発売していました。「※7ファミリーベーシック」や「※8ファミリートレーナー」等といった周辺機器は、ハドソンの「※9ジョイカードマークII」を除いてどれもお世辞にもヒットしたとは言いがたいですが、その中でもひときわ忘れられないハードがあります。
それが「※10ディスクシステム」です。
話が前後してしまって申し訳ないのですが、「スーパーマリオ」が本当に3度の飯より好きだったわたしは、「スーパーマリオ」の次回作……つまり「スーパーマリオ2」が出るという話を聴き、当然これもやってみたくて仕方がありませんでした。しかしこのディスクシステム、そのシステム自体を持っている人がまわりにあまりおらず、結局「2」をやることができたのは数えるほどだったと思います。※11ディスクの書き換えシステムのおかげでひとつのゲームを長く持っている友達がいなかったのですね。ファミコン本体を買ってしばらくしたら買えばいいかと思っていたのですが、お金がなくて先送りにしているうちに、ディスクシステムそのものがマイナーなものとなり、やがて市場から姿を消してしまいました。そういう意味では、「スーパーマリオ2」はわたしの中では「心の名作」とでも呼ぶべきものです。
そして小学校を「ドラクエ」とともに過ごし、卒業アルバムの「将来なりたい職業」に「ドラクエを作る人」と書きながら卒業。中学校に上がると、今度は「ドラクエIV」が発売されます。
これは雑誌等で存在は知っていて、ドラクエ崇拝とも言うべき立場だったわたしが興味を持ったのはごくあたりまえのことなのですが、金銭的な理由で買えずにいました。仮に金銭的に余裕があったとしても、大人気ソフトだった「ドラクエIV」を入手するのはやっぱり大変だったでしょう。やきもきしながら過ごしていたところ、クラスの既にゲームを終えた友達が、「ドラクエIV」を貸してくれたのです。
これももう、問答無用でやり狂いました。「III」よりもさらに深い物語、綺麗な音楽、魅力的なキャラクタ。そして広大な世界観。小学校の時にはじまった「ドラクエ」の世界を、この「IV」はさらに深く広げてくれました。本を読んだりするにもそれなりに好きな子どもではありましたが、それ以上に、「物語」に対する興味、面白みを知ったのは、おそらく間違いなく「ドラクエ」シリーズのおかげでしょう。中でもキャラクタが豊かな表情を持ってこちらに語りかけてくる「IV」は、シリーズの中でももっともお気に入りの作品です。余談ですが、わたしのゲームレビューに対して「ゲームを「作品」と書くのはなぜか」と聞かれることがありまして、これは数少ないわたしのコダワリなので、特にこれと言った意味があるわけではないのですが、ゲームを「作品」と呼ぶのは、わたしの中ではこの「ドラクエIV」から始まったように思います。ひとえにそれは、ただ「ゲーム」なだけでなく、物語を持った一本の「作品」であるからなのかな、などとぼんやり思ったりします。
しかし、それほどの勢いを誇ったファミコンも高スペック化の波には勝てず、やがて徐々にほかのハードに押されてその勢いを弱めていきます。特に同じ任天堂のスーパーファミコンの発売は決定的で、ファミコンソフトも同時にリリースすると任天堂の発表はあったものの、これから先ファミコンからスーパーファミコンへと基盤が移っていくのは誰の目から見ても明らかでした。
そして予想通り、ファミコンは徐々に表舞台から消えてゆきます。そしてそれと同時に、やっぱりスーパーファミコンを買うだけの財力がなかったわたしは、時折有名ソフトが発売された時にハードとソフトを友達に借りてやる程度になって、そのまま熱心にテレビゲームに触れることもなくなっていきました。そしてそれは、高校に入って「プリンセスメーカー」に触れるまで続いていくことになるわけです。
このファミコン、今では既に古臭いハードになっていることは言うまでもありません。その後に出たスーパーファミコンですら、今ではもう既に古いハード扱いですから当然のことです。
わたしは、あの頃は名作ソフトがいっぱいあった、なんてことは言いません。確かに名作と呼べるようなソフトがあったのも事実ですが、一本の名作の裏に何百本もの駄作があったのもまた真実ですから。それは今のプレイステーションとかドリームキャストでも同じことでしょう。でも、画面の綺麗さとか音の綺麗さとか、そういうことでごまかせない分だけ、あのファミコンの頃のゲームたちというのはものすごくチャレンジ精神に溢れていて個性的だったというのもまたさらに真実だと思います。そしてそれだからこそ、まだガキだったわたしたちに、ゲームの楽しさ、そしてさらに「想像する楽しさ」を教えてくれたのではないかと思うのです。今の、動画がバリバリ動くようなハードは、ゲームに確固たるリアリティを与えましたが、それと同時に想像する世界観をわたしたちから奪ってしまいました。「リアル」とは、「現実に即した」という意味と同時に、「唯一の」という意味も持ちます。誰が見ても唯一の世界しか想像させないゲームは、それはそれでもちろんアリだと思いますし、一般的なオトナがやるなら圧倒的にこちらのほうが楽しむことができるはずです。しかしそこからは、かつてのゲームにあった「想像することの楽しさ」を感じることはできません。「スペースインベーダー」は、あのどうしようもないほどシンプルな画面と操作ではあったものの、プレイ中にプレイヤーは頭の中で恐怖のエイリアンとの熱闘を想像していたはずです。「ドラクエ」の戦闘シーンも、文字とダメージを受けると画面が揺れるだけの演出で、プレイヤーの頭の中には激しい死闘が浮かび、たとえば「炎を吐いた」というメッセージから、鉄をも溶かすような灼熱の炎を、あたかも自分のすぐそばにあることであるかのように想像していたはずなのです。それだけは、今のゲームが「今のゲーム」である以上、絶対に戻れないポイントなのでしょう。残念ではありますが、こればかりはどうしようもありません。ただの懐古主義は毒にしかなりませんから。
最近、ヤフーオークションでファミコン本体を購入しました。これは古いハードにかかわらず、前オーナーの使用状況が良かったのかものすごく順調に動いています。これで昔のゲームをやっていると、ひとつのステージの攻略に一喜一憂したり、音楽が好きなゲームの音楽をテレビから直接ラジカセに録音したり、雑誌に載っている裏技の成功不成功にわくわくしたりしたあの頃の記憶がぼんやりと蘇ってくるようで、こういう感覚が、なんだか懐かしくて嬉しくてたまらないのです。
※1 テレビゲーム
という言い方もなんだか古臭いですが、当時この名称はファミコンもセガマークIIIもPCエンジンもメガドライブも、つまり家庭用テレビを使ってプレイするゲームを総称する呼び方だったのです。「ビデオゲーム」とも呼ばれていましたが圧倒的に有名だったのはこっちの「テレビゲーム」でしょう。尚、ファミコンの大ヒットの後、そういうものの区別がつかない大人は、テレビゲームを全部ひっくるめて「ファミコン」と呼んでいました。ぴゅう太もカセットビジョンもみんな「ファミコン」。こういう人は今でもよくいますな。
※2 記憶領域
やってる人にはおなじみの「冒険の書」というやつです。ファミコンカセットの中にデータを保存するためのバックアップメモリーを搭載しており、それまでの長くて面倒だったパスワードが要らなくなるというのは画期的でした。が、カセットに衝撃をあたえたり、ファミコンとの接触不良などによって簡単にデータが消失するため、ゲームの始めと終わりは極度に神経質になった記憶のある人も多いでしょう。
※3 老朽化
ファミコンは子どもが使うことも考えられているのか、基本的には至極頑丈なハードでしたが、後ろの端子部分の接触は極端に甘く、ここは結構どのハードも簡単に壊れたみたいです。この部分がイカれてテープで補強したりしながらゲームをやった記憶のある人も多いのではないでしょうか。
※4 一日一時間
これもファミコン世代の方ならおなじみの言葉ですね。当時、ハドソンの高橋利幸氏(高橋名人)が提唱した言葉です。この頃はファミコンのやりすぎが社会現象になりつつあって、それを牽制するための発言だったのでしょう。当時の高橋名人といえば、まさにわれわれファミコン少年にとっては神様のような存在でしたから、その発言自体は有名になったものの、当時の大容量化したファミコンソフトは、ほとんどのソフトが一時間でのクリアなど不可能で、さらにセーブもできないような代物もたくさん出回っていましたから、この発言自体無理があったと言えなくもありません。そもそもその高橋名人の名前が冠された「高橋名人の冒険島(ハドソン)」ですら一時間やそこらでクリアするのは絶対に不可能で、子ども心に非常に不条理に思っていた記憶があります。
※5 マリンスライム
ドラクエIIIに出てくる敵キャラ。海にだけ出現する貝殻を被ったスライム。
※6 はだしのゲン
なぜか小学校の図書室には必ずあるらしく、学校で堂々と読める唯一の漫画と言うことでそれなりに人気はあったりしますな。しかしあんな重い漫画をスナック気分で読ませるというのは正直どうかと思いますが。戦争の悲惨さを訴えるとかそういうのの役には立つでしょうが、小学生の頃はわたしやわたしの友達は基本的にバカが多かったので、あれに出てきた広島弁のマネするのが流行るという不謹慎きわまりない事実がありました。
※7 ファミリーベーシック
ファミコン黎明期に発売。専用キーボードが付属しており、ファミコン上でハドソン製のBasicが使えました。簡単なゲーム(本当に簡単なゲームに限る)ならこれで自作できて、パソコンを持っていないファミコン少年になんとなく希望を抱かせたものでしたが、使い勝手はあんまりよくなかったように思います。
※8 ファミリートレーナー
ファミコンが家にこもってやる不健康なモノだという風評に対抗するためか、ファミコンに接続して運動してしまおうという画期的なコンセプトで発売、アスレチックをどんどんクリアしていく「アスレチックワールド」や、エアロビクスができる「エアロビスタジオ」(タイトルうろ覚え)、当時大ブームだったテレビ番組をモチーフにした「風雲!たけし城」などというソフトが発売され、なかなか面白そうではあったのですが、普及にはいたらずいつのまにか消滅してしまいました。やっぱりファミコンは家の中に篭ってやるものだということなのでしょう。余談ですが、このファミリートレーナーで「三国志」をやると、砂漠を実際に自分で歩いているようでとても面白かったそうです。やったことありませんけど。
※9 ジョイカード マークII
「マークII」ということはおそらく初代もあったのでしょうがこっちはよくわかりません。要するに追加コントローラで、いかにもハドソンらしく連射機能がついていました。普通のコントローラより一回り大きくて持ちやすいのもひとつの特徴でしょう。これ、連射が云々というよりも、三人で遊ぶゲーム(「くにお君の熱血大運動会(テクノスジャパン)」のようなソフト)がちらほら出てきており、三つ目の補助コントローラとして売れたのではないかというのがわたしの推測なんですが、どんなもんでしょ。
※10 ディスクシステム
やればやるほど、ディスクシステム♪のCMがいまだに記憶に残っている人も少なくないと思います。要するにファミコン用のFDDドライブで、ROMよりもさらに大きな容量を確保することができたほか、これ自体でひとつ音源を搭載していたため、音楽も何気にハイクオリティになったそうです。
※11 ディスクの書き換えシステム
この時代のゲームを扱う店にはどこにでもディスクライターと呼ばれる端末があり、これは何かと言うとファミコン用のディスクを一枚持っていって500円払うと、その場で別のゲームに書き換えてくれるという画期的なサービスをやっていたのです。お金のない子どもにはこれは確かにいいシステムでした。今、ディスクライターを置いてあるおもちゃ屋というのは見たことがないというかあったら是非見て見たいもんですが、今でも任天堂本社にディスクを送ると500円で書き換えをやってくれるみたいです。
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